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        <title>現代未解決問題取扱所</title>
        <link>http://mitsuno-y.com/</link>
        <description>現代未解決問題取扱所 - この宇宙や人類に関する多くの未解決な事柄に立ち向かい、何らかの方向性を見出すことを目的としています。</description>
        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2012</copyright>
        <lastBuildDate>Fri, 16 Mar 2012 14:40:02 +0900</lastBuildDate>
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            <title>新着記事公開のお知らせ（最終）</title>
            <description><![CDATA[<p>当サイト【現代未解決問題取扱所】最後の議題を公開しましたのでお知らせいたします。</p>

<p><a href="http://mitsuno-y.com/file/category/cat37.php">「愛、博愛」</a></p>

<p>また、<a href="http://mitsuno-y.com/file/201203/08_191840.html">こちらのページにて詳しくご挨拶をさせていただいております</a>が、これまで約5年間に亘って公開を重ねてきたこのホームページは、今回の<a href="http://mitsuno-y.com/file/category/cat37.php">「愛、博愛」</a>をもって終了となります。</p>

<p>これまでこのサイトをご覧頂き、本当にありがとうございました。<br />
</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">お知らせ</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 16 Mar 2012 14:40:02 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>結論</title>
            <description><![CDATA[<p>＜ここでは大胆にも断言的な表現を使わせていただく。それはその内容が同じ認識を持つ者にしか理解され得ない、すなわち論証不可能なものだと思うからだ。これを読まれる方は自らの感性に沿い、自らの魂で読んでいただきたい。＞</p>

<p>愛は相手を肯定するところから始まる。すべての人には優劣、強弱、正邪などの比較によっては測れない特性がある。それは全ての人の心の奥に、それぞれ違う種が植えられているからだ。しかもこの種には芯があり、芯は輝きを持っている。そしてこの輝きは宇宙の本質と繋がっている。その輝きの正体を言葉で言い表すなら親和力だ。親和力がある以上、人は他と結びついて歓喜を味わう。これが宇宙の摂理であり、したがって宇宙は歓喜によって成り立っている。</p>

<p>人それぞれの種は心の奥底に埋め込まれているため、その特性がそのまま外に出ている人は少ない。とは言え種の持つ特性と正反対のものが表に出たりはしない。何らかの形で、大なり小なり人は自分の種の特性を表に出している。</p>

<p>この種の芯に輝く光が宿り、その光は表に出るのを待っている。我々が目先鼻先の欲や、驕りや、高慢さを払拭すれば、この光は一気に人の表に現れる。本心は光を求めていながら、周りにあるものを次々と着込むので、実際には光の出口を塞いでしまっている。我々は肩書や名声や知識や論理や預金の金額などいった、様々な鎧で自分を守ろうとするので、光は表に出ようとしてもその出口を見出せないでいる。しかし一旦その光が表に現れ、他の人を照らしたとき、人はこれを愛と感じる。</p>

<p>全ての人はこの輝きを魂の奥に秘めているので、人は決して穢されてはならない聖なる存在であり、肯定されるべき存在だ。したがって愛は相手の肯定から始まる。もし相手の本質を見抜いてその輝きを知れば、我々は相手の存在を肯定せざるを得ない。何故ならその輝きは価値そのものだからだ。</p>

<p>宇宙は光から始まったが、翳(かげ)りに翳って様々な階層的世界を生み出し、ついにはその底に物質世界を造り出した。底の世界は波動が粗く、薄い闇に覆われている。けれど物質世界にあっても、生きとし生けるものはその魂に光を持ち、その光は宇宙の本質と繋がっている。すなわち波動の粗い物質世界であっても、その背後には輝き続ける光が存在する。その光を別の言葉に置き換えれば歓喜であり、親和力であり、聖性であり、豊饒であり、崇高さであり、美であり、愛そのものだ。</p>

<p>宇宙は自ら生成し、変化し、多様化し、進展し、止まることを知らない。すなわち宇宙は一切を創造しつつある。この創造は愛の力によって行なわれ、その愛は光から出来ている。すなわち宇宙は初め光として生まれ、光に満たされていたが、その光の機能として愛が生まれ、愛によって森羅万象が造られた。したがって宇宙は光そのものであり、愛はその宇宙の本質として存在する。</p>

<p>しかし実際には我々は光そのものを見るのではなく、波動の粗い影を見ている。影には実体がない。それは影が光によって消え失せてしまうことからも解る。我々はいわば光を覆う闇の幻想の中で生きている。この幻想は影であるゆえに宇宙の本質ではない。影は光の遮断によって生まれ、そこに闇の世界が形作られるが、もともと光の遮断がなければ生まれ得ない世界であって、闇のこの世界は光に依存したまやかしの世界だ。すなわち影は光の表面を漂う幻想であって、水に浮かぶ泡のようにやがて消える運命にある。</p>

<p>闇を好んで闇に生きようとする者はこの泡のように、幻想の世界が終わる時に消えることになる。光もまた幻想であると言うこともできるが、しかしそれは宇宙を生成し創造しているものなので、宇宙そのものが消滅する時でなければ消えることはない。</p>

<p>我々の本質は宇宙の本質と同じく光であり、光の機能としての愛を秘めている。よって表に現れる出口を用意してやれば、人は愛を発現し、周りの人を愛で包むようになる。その愛は強いることがないので不快感を及ぼすことがなく、忍耐の形を取って他人(ひと)を見守り続けるので、相手が振り向いた時にいつでもその人を受け止めることができるように働く。このように愛は他人を嫌わず、憎まず、怒らず、相手を包み込む受け皿として機能する。</p>

<p>生き物の多くは雌雄に分かれて求め合う。それは性もまた愛だからだ。愛は親和力であるため互いを結び付ける。結ばれることによって歓喜が生まれ、歓喜は華美なる感情をもたらし、この感情が互いを聖域へと誘(いざな)う。雌雄を分けた生きとし生けるものは、この聖域で崇高な交感を体現し、豊饒の結果へと導かれる。このように愛は創造に関わり、常に生まれつつある宇宙の変化・発展を支えている。すなわち愛は創造と共にあるがゆえに滅びることがなく、創造と共にあるがゆえに宇宙開闢の時から永劫の未来まで在り続ける。</p>

<p>愛は他の者を活かし、活かした者は活かされ、互いを清く豊かな関係へと導く。それは愛の本質が創造であるため損なわれることがなく、清貧なるものに甘んじることもないからだ。創造の技は豊穣をもたらし、多様さをもたらし、美をもたらす。そして創造の技には歓喜が伴う。</p>

<p>歓喜は満足や幸福や充足を超えた、究極の愛の現れであり、森羅万象は歓喜の歌に満ちている。耳を澄まし、心安らかにし、自分にこだわらず、現世的な欲から離れれば、歓喜の歌が全宇宙を貫いて響き渡っているのに気付くだろう。愛はこの歓喜と共にあり、歓喜を発現させるものとして機能し、かつ歓喜そのものでもある。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/love06.jpg" alt="結論" class="img_right" />これまで、そして今も、我々の多くは愛を求めながら盲(めしい)のように見えず、宇宙に満ち満ちる歓喜の歌も聾(みみしい)のように聞こえずにきた。しかし時が迫り大変化の節目を迎えつつある今、まだ見えもせず、聞こえもしないけれども行動を起こした人たちが、徐々に愛に目覚めつつある。中にはすでに愛を見出し、歓喜の歌を聴いた人たちもいるが、その人たちでさえ、新しい時代に向けて何をどうすればいいか解らないでいる。しかしそれは難しいことではない。創造を仕事とし、歓喜を味わって生きられる世界を実現するために、身の回りから変えていけばいいからだ。</p>

<p>我々のこの時代、千載一遇の好機が巡ってこようとしている。それは人類が新しい時代に向かって羽ばたく、大転換の到来を意味している。その飛翔を確かなものにするために、我々は今から行動を起こしていなければいけない。我々の行動は不完全な雛形に過ぎないが、しかし雛形の向こうには本物が待っている。この不完全な物質世界では我々の言動は完全なものにはなり得ない。しかしそれを乗り越え突き進む意志がなければ、新しい世界を引き受けることもできない。</p>

<p>宇宙には停滞がない。いかなる存在も休むことなく活動し、分子原子に至るまで一瞬も動きを止めることはない。それはこの宇宙にある如何なる存在も、静止によって死がもたらされるからだ。もしその静止が森羅万象に波及すれば、宇宙自体が終焉を迎える。よって動かずに停滞の中にいるものは、如何なるものも淀みとなって腐敗し、死の淵へ落ちてゆく。</p>

<p>この宇宙において停滞が死を意味する以上、単に待つだけでは新しい時代にはならない。もし何もせずに時代が変化したとすれば、到来する世界は腐敗する淀みのようなものになるだろう。「たなぼた式」に何かが与えられるのを待ち望む怠惰な人たちは、自分を穢れない人間だと思い、美しい言葉だけを口にし、自分は悪いことをしていないのだから救われるはずだと思っているかも知れないが、自分からは何も行動しないので、やがて腐敗の穴へと落ち込むだろう。</p>

<p>世界は自ら求め、自ら行動する者によって初めて変わり得る。自分の行動によって状況が変わり、世界が変わり、宇宙もまた変わるのは、それが静止することのないこの宇宙の法則に沿っているからだ。</p>

<p>愛は思っている段階では自己満足でしかない。思っているだけでは何も変えられない。我々が宇宙の本質を秘め、宇宙と一体であるという事実は、我々が行動することによって宇宙もまた変わっていくことを意味している。現状にしがみついたまま、引き続き輪廻転生の輪の中に閉じ込められることに甘んじるか、さらなる暗い世界に引き込まれて、そこに居座ることに満足するか、あるいは今巡ってこようとしている好機を捉えて、自らを新しい時代へと導くか、どの結果に至るかは私たち自身の選択と行動にかかっている。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/201203/15_223939.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">愛、博愛</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 15 Mar 2012 22:39:39 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>博愛</title>
            <description><![CDATA[<p>フランス革命の時に用いられた標語が"Liberté, Égalité, Fraternité"であり、これは日本語に『自由・平等・博愛（または友愛）』と訳された。大正から昭和にかけての政治家であり、フリーメイソンの会員でもあった鳩山一郎が、この中のfraternitéを友愛と訳して普及に動いたため、当時の日本の、特に文化人の間に広まった。</p>

<p>この言葉は元々三つ一組だったわけではなく、『自由』に他の二つが順次付け加えられたものだと言われている。それを画策し、歴史の必然のように脚色したのがフリーメイソンだという。自由および平等の項でも述べたが、これら二つの言葉は日本人に馴染まず、日本文化の中で消化されなかったため、曲解されたまま現在も使われている。しかし三番目の博愛に関しては日本の風土と文化、そして日本人の気質に馴染んだため、瞬く間に広まった感がある。</p>

<p>Fraternitéは当時、友愛、博愛、四海同胞などと訳されたが、現在は友愛と訳されることが多い。この友愛は英語で言えばbrotherhoodあるいはfriendshipに相当し、兄弟姉妹の愛や友情を意味する。したがってイエスの説いたアガペーとは違っている。アガペーという言葉自体は歴史的変遷があり、もともとは家族愛のようなものとして使われていたようだが、新約聖書の著者がプラトンのエロスと一線を画すため、神の無償の愛という意味を込めて使い出したものらしい。</p>

<p>一方エロスには神秘的なニュアンスが含まれている。それは男女が肉体的に結ばれた結果として子供が生まれるからだ。大地から芽吹いて豊穣をもたらす植生の神秘と同じく、今も昔も、新しい生命が女の肉体から生まれるのは驚異であり神秘だ。</p>

<p>しかし聖書の記述者は、エロスの含有する聖性、すなわち肉体にまつわる興奮を悪であるように際立たせ、これを排除して純粋な精神愛を対立的に想い描いたようだ。そして神は神自身に何の利するところもないのに人間を愛しているのだから、人間も無償の愛を実践しなければならない、と説くようになった。しかしこれが後々、肉体的興奮を否定した歪んだ愛へと姿を変えることになる。すなわち興奮を恥または罪とする禁欲だ。中世のヨーロッパはもちろん、現在の世界中の多くの人々もこの肉体的興奮を評価できず、単なる欲望に貶めてしまっている。先ほども言ったように、性なるものは宇宙の本質である歓喜を、いわば雛形として人間に明示しているのにも拘わらずだ。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/love05.jpg" alt="博愛" class="img_left" />このように、友愛は中世からの脱却を象徴するかのように、宗教的な雰囲気を払拭し、世界全体に拡大されるべき人類愛として解釈されるようになった。こう表現されると博愛（＝友愛）は、多くの人にとって人類の理想のように思われるかもしれない。しかし一見崇高に見えるこのフランス革命の標語も、実は自由や平等と同じく実体を伴っていない。それは愛の実践は具体的な行為そのものだからであって、人類全体に対する具体的な行為などあり得ないからだ。</p>

<p>ここには一般庶民のみならず、知識層も含めたほとんど全ての人を勘違いさせているカラクリがある。我々が愛を実践するのは、ごく普通に相手を助けたり励ましたり、じっと見守ったりする具体的な行為によってだ（じっと見守るのもれっきとした愛の行為だ）。これらを除いて愛の実践は存在しない。したがって日本人全員を愛するとか、人類全体を愛するといった表現は空文に過ぎなく、何も語っていない。</p>

<p>しかし寄付行為や災害地へ送る物資の拠出や、実際に被災地に救援に行ったりするのは人類愛と言えるのではないか、といった考えをお持ちの方もおられるかもしれない。これについて話をしよう。</p>

<p>寄付行為については『宇宙と人間の本質－個別的事実』の項目の『赤十字』のところで述べているように、必ずしも善意が末端に届くとは限らないし、途中で莫大な金が何らかの名目で消えることも多い。これは政府による難民救済や後進国援助でも同じだ。名目はいくらでもある。組織の役員・職員の人件費。現地政府の高官・政治家への謝礼、すなわち賄賂。輸送費、旅費、現地事務所代、食費、会議費等など。末端へ届くのは全寄付金の僅か1割か2割だという報告もある。日本国内でさえ政府の助成金や日本赤十字に集まる寄付金などの多くが、どこにどのように使われたか明らかにされていないのだから、この話は決して大袈裟ではないだろう。</p>

<p>寄付行為はよほど注意しなければ善意が実を結ぶことはない。もし本当に善意を届けたいなら、難民キャンプ、後進国、被災地などへ、自分たちでチームを作って現地までお金や物資を届けるしかない。</p>

<p>結局博愛も、具体的な行為に及んで初めて実を結ぶわけで、漠然とした概念などは何も語っていないことになる。我々はまず身の回りから、他の人とごく当たり前に助け合い、援助し合い、励まし合わねばならない。そして余裕があれば、少し遠くの困っている人々を助けに行くのがいいだろう。また寄付行為は、もし十分にその活動内容や組織内容、救援の仕方などが分かっていて、しかも適切なお金の処理が行われているのが分かれば、その団体には無駄にはならないだろう。</p>

<p>今の時代は自分や自分の家族や自分の知り合いのためだけに行動する人と、身近な人と他人とを問わず自分以外の人のために行動しようとする人に分かれていきつつある。具体的には、自分や自分の家族、自分の友達のためにしか行動しない人、世間の常識や流行にだけ追従する人、スピリチュアル系怠惰人のように口先だけ美しいことを言って何も行動しない人などは、本物が徐々に根を張り、本物が台頭する新しい時代が到来するまでに淘汰されていくだろう。</p>

<p>一方他人(ひと)のために行動している人、行動しようとする人はいくつもの試練を超えなければならないだろう。その一つは先にも言ったが、自分は善人であるという驕りに陥らないようにしなければならないことであり、また使命に目覚めるのはいいが、自分が選ばれた人間であるかのように思ってはならないことだ。さらに人や団体への寄付行為や援助などが無駄に終わったり利用されていたことが分かったとしても、怒ったり挫折したりせずに、まっすぐ前へ進まなければならないことだ。</p>

<p>現在の地球を俯瞰すれば、破綻寸前の世界経済、欲にまみれた人心、競争と戦いを煽る社会風潮が見えてくる。そんな中で真っ当な感覚と感受性を持った人々は発狂寸前のところでじっと耐えて生きている。人が病み、自然が病み、地球が病んでいる。こんな世の中が長続きするわけがない。終末やカタストロフィーの予言などなくても、事実をきちんとを見れば、時代は大きく変わらざるを得ない状況にあるのが解る。</p>

<p>ただし自分だけ解ったつもりになって傍観していても、現実をより良いものに変えることはできない。こうした世の中だからこそ我々は意思表示をしなければならないだろう。あなたは今我欲に生き、現状維持に躍起になっているだろうか。それとも皆が他人(ひと)のために生きる世界を実現するために行動を起こしているだろうか。未来は決まっていない。明日の地球は一人一人の選択にかかっている。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/201203/15_223657.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">愛、博愛</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 15 Mar 2012 22:36:57 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>愛の本質</title>
            <description><![CDATA[<p>愛には力があるという考えがある。これはどういう意味なのだろう。新約聖書は愛について色々述べているが、それほど感銘を受けない。愛についての書物なら『ヒマラヤ聖者の生活探究』に優るものはないと思う。この本の中で愛を訴える迫力は読者を圧倒するものがあり、本当に愛には偉大な力があるのだと感じさせられる。私はこの本を何度か読んでいるうちに愛に開眼した。</p>

<p>愛がどういうものかが解ってみると、今まで自分が愛について考えたり他人に言ったりしていたことが如何に的外れだったかが分かり、大変恥ずかしく思った。これは見たことのないものについていくら説明されても理解できないのと似ている。</p>

<p>例えばある人が旅先で立ち寄った窯元で見た、とても気に入った花器について友人に説明したとする。その人は形や色や艶などについて興奮して話すが、聞く人はその素晴らしいという焼き物を想像しようとしてもどうしても絵にならない。やがて話す人は百語を費やしても伝わらないのを知って、話すのを止めてしまうだろう。</p>

<p>しかしもしこの両者が同じものを見たことがあるとしたら、話は全く違ってくる。何故ならどちらも、花器についての説明という義務から解放されるからだ。二人は互いにあの形がよかった、あの色合いが何とも言えなかったなどと感想を言い合い、大いに話は盛り上がるだろう。</p>

<p>またダ・ヴィンチの『モナリザ』を一度も見たことも聞いたこともない人に、しょっちゅうルーブル美術館に通って見ている人がこの絵のことを伝えようとすれば同じようなことになる。その人が何時間も費やして説明を試みたとしても、見たことのない人は自分の中でイメージを描けない。もしこのとき聞いた人が分かった気になったとしたら、それは自分の中で作り上げたイメージに過ぎなく、本物のモナリザとは似ても似つかないものだろう。</p>

<p>すなわち見たことのない人が、見たことのある人からどんなに説明を受けても、その作品の雰囲気や色調やマチエール（絵画や彫刻の表面の質感）は伝わることはないので、その説明は無意味となり、説明する行為も虚しいものとなる。</p>

<p>これと同じことで、愛を見た人が、すなわち愛が如何なるものか分かった人が、それを知らない人に説明しても理解されることはない。愛に開眼した人たちはやがてこの事情を知るようになるので、他人に説明したり力説したりしなくなる。ただ、知っている者同士は愛について相手が話すのを少し聞くだけでそれと分かるので、互いに信頼関係を築くことができる。</p>

<p>テレビに出てきて愛について語る人が時々いるが、本当に知っているのかどうかは愛に開眼した人が聞けばすぐに分かる。何故なら語っている人が本当に愛を知っているなら、その人の言葉は愛のイメージから決してブレないし、逆に知らないで語っている人は必ず的を外すからだ。</p>

<p>ただし愛に開眼しても、それを行動に移さなければ愛は実現しない。したがって開眼した当初は実現のためにどう行動すればいいのか分からない人もいる。初めは溢れんばかりの愛が心の内から湧き出てくるので、物であろうとお金であろうと何でも他人に分け与えたくなることもある。愛に突然目覚めた人にはこういうことが起こりやすいので、先に目覚めた人たちの保護や助けが必要かもしれない。しかし助言してくれる人が必ず傍にいるとは限らないので、目覚めた人は先に目覚めた先輩を探すことをお勧めしたい。</p>

<p>愛に目覚めた人はその時から突然愛の人になるわけではない。人は愛を実践することによってその心に奥行を広げ、また許しの気持ちも育んでゆく。すなわち愛に目覚めた時はまだ出発点に立ったに過ぎない。その後は躓きながらも実践に励まなければならなくなる。温和で優しくあろうとすれば、それにつけ込む人も出てくるだろうし、他人のために何かしようとすれば、自分を利用しようとする人も現れてくるだろう。しかしそれでも心を曲げず、人間不信になったり他人を憎んだりせずに、自分の想いを貫くことが愛の道だ。ただしその道はキリストのように暗く悲劇的なものであってはならない。愛は光なので、歓びに満ちたものでなければならない。</p>

<p>では愛が実現している世界があるとすればどのようなものか想像してみよう。愛は想いだと考える人がいるかも知れないが、想っているうちはまだ愛ではない。行動に移して初めて愛の形を取る。したがって愛が実現している世界では、皆が他人のためにごく当たり前に行動していることだろう。そこには誹謗，中傷、悪口、陰口などは微塵もなく、相手が困っていれば助け、相手が歓んでいれば共に歓ぶということが自然に行なわれているだろう。そこには揺るぎない信頼関係があるので、安心して相手に尽くすことができ、共に歓ぶこともできる。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/love04.jpg" alt="愛の本質" class="img_right" />これらのことから分かるのは、愛が実現している世界では、誰に対してであろうと『あなたを愛してます』などという言葉は使わないということだ。なぜなら日常において当たり前に存在しているものを、人はあえて言葉にしたりしないからだ。実は世界の少数民族の中に、『幸福』という言葉を持たない民族がいる。それはおそらく何の不満もなく、満たされているのが当たり前だから、『私は幸せだ』などとあえて口にしないのだと思う。そのように幸せとは決して大それたことではなく、ごく普通の状態で実現するものなのだ。</p>

<p>今の日本では露骨に『幸せになりたい』などと言う人が増えているが、その人たちは『私は今幸せではない』、すなわち『自分は不幸だ』と公言していることになる。こういう人たちはまず自分が幸せになりたいという欲にまみれているので、言い換えれば精神構造が永久不満型になっているので、たとえ何かが手に入り、何かが実現したとしてもそれで満足することはない。こうした人たちは次々と欲を膨らませてゆくので、何かが実現してもさらに多くのものを望んで『幸せになりたい』と言い続けるだろう。それはどんな現状にも満足できない、いわば『幸福飢餓症候群』とでも言うべきものになっている証拠だ。</p>

<p>こうした症状がなぜ起こっているのかというと、次々に発売される新製品を買わなければ人並みだと思えないといったように、日々テレビなどで洗脳されているため、新製品が一つも買えない状況に置かれると、それだけで不幸だと感じてしまうからだ。このようなことは着る物、住い、肩書、預金などあらゆることについて言える。流行の服を買えないと不幸だと感じ、立派な家に住めないと不幸だと感じ、地位が上がらないと不幸だと感じ、預金が増えないと不幸だと感じる。これはもはや病気以外の何ものでもない。</p>

<p>こうした病状を呈するのは、毎日テレビなどで企業がコマーシャルを流し、様々な番組で中流以上の生活を当然あるべき姿のように描き出しているからだ。しかしこれは実は、企業が一般庶民の購買力を高めるために仕組んでいる戦略でしかない。</p>

<p>現在の経済社会は嘘八百の進化論よろしく、常に進歩発展して、人類は必ず豊かになるかのような幻想を振りまいている。70億もの人間がみな欧米先進国の中流以上の生活を始めたとしたら、地球は三年と持たないだろう。そんな自明のことが公には伏せられている。テレビ番組でこんなことを公言する人はほとんどいないし、たまにいたとしてもその発言は一過性のものに終わり、重要な問題として継続的に扱われることにはならない。</p>

<p>話を元に戻そう。愛が行なわれるためには下心や損得計算や目先の欲があっては最終的にうまくいかない。それどころか全てが台無しになる。中には人間の欲は完全にはなくならないので、そんなきれいごとを言っても意味はないと言う人もいるだろう。しかしこの手の人は自分は現実的で自分の考えもぶれていないと思っているようだが、残念ながら問題の本質は見抜けていない。</p>

<p>人間が我欲から逃れられないからといって、だからどうだと言うのだろう。この手の人たちはだから人間は獣と変わらない、とでも言いたいのだろうか。あるいは、だから愛の世の中なんて実現しない、だから世界平和なんて実現しない、だから不正や賄賂や犯罪はなくならない、とでも言いたいのだろうか。人間をそんなふうに貶(おとし)めて何が嬉しいのだろう。</p>

<p>人は我欲のために愛を行なうのではない。それは自分のためであり、相手のためであり、全体のためなのだ。間違っているのは『自分<strong>だけ</strong>のため』と言う考えであり、互いに益するところがあり互いに歓び合えるなら、それは自然の摂理に適ったものだろう。自然は性(セックス)においてさえ、互いに響き合うことによって歓びが幾倍にも増すことを示しているではないか。</p>

<p>これに関しても先の連中なら、我欲と我欲が互いを求め、単に相手を利用して欲望を満たしているだけだ、と言うかも知れない。こうしたまやかしの屁理屈を分かった気になって述べるとしたら、勉強、仕事、スポーツ、クイズ、ゲーム、さらに経済、研究、技術開発など、この世のほとんどすべての分野で競争を余儀なくされているからで、そうした環境で育ったために、それ以外の発想ができないでいるからだ。</p>

<p>愛は一方だけが歓ぶものではなく、響き合ってさらなる歓びを生むものだ。それを体現する貴重なサンプルが性であり、性はそうした波動によって響き合う宇宙の本質を我々に知らせるために授けられてあるのだと思う。言い換えれば男女は愛によって波動を高め、愛によって響き合い、愛によって結ばれ、その極致で宇宙の本質である歓喜を味わうために、性なるものを授かったのだと思う。</p>

<p>したがって性は聖であり、穢してはならない宇宙のサンクチュアリ（聖域）だ。素粒子も原子も分子も波動であり、我々は波動で出来ている。波動で出来ているのだから、我々の思いも当然波動であり、我々の行動も波動であり、したがって愛も波動だ。愛が波動なら、音のように共鳴することも、しないこともある。他の波動と重なれば和音となることもあるが、不協和音となることもある。相手の体だけ、自分の欲だけを求めても和音にはならない。相手の響きを心の深みで捉え、その響きに乗せて自分の想いを響かせる。そうして初めてそこに和音が生まれ、共鳴し合うだろう。</p>

<p>愛は対象があって初めて生まれる。物でも植物でも動物でも愛の対象になり得るし、響き合うこともできる。しかし中でも人間同士は最も響き合える対象に違いない。その理由は、人間同士は波動の重なる幅（領域）が一番広いからだ。このことは何を意味しているのだろう。人は人と響き合い、共鳴し、歓喜するよう宇宙の本質が我々に強いているからだ。したがって我々は独りでは当然歓びも得ることはできない。もっと言えば、我々は独りでは人ではなくなる。それはこの宇宙に自分一人しかいない状態を想像すれば分かりやすい。人は対象を認識することによって自分を認識する。もし自分一人しかいなければ対象がないので自分を自分だと認識できない。だとすれば当然人間だとも思えないだろう。まさにWe are the world.だ。『我々』だからこそこの世であり、人間の世界なのだ。</p>

<p>ではこちらが波動を発しても応えてくれない場合はどうしたらいいだろう。この宇宙は波動で成り立っているので、不完全で不調和なこの世界では、相手によっては不協和音になることもある。しかしそのことによって相手を憎んだり嫌ったりしては愛は実現しない。不協和音は絡み合えばますます恐ろしい雑音となる。それを避けるには距離を置いて、相手をじっと暖かく見守るのがいいだろう。今の世の中にはこうした姿勢が足りないと思う。相手が思い通りにならないと苛々したり、中傷したりするようでは世の中は住みづらくなるばかりだ。愛を実現しようと誰彼かまわず接近するのではなく、不協和音を作らないことも大事な愛の行為なのだ。</p>

<p>また我々は不幸な人、つらい立場にいる人を前にしても何もできないことが多い。しかしそうした場合でも、じっと見守る姿勢があれば世の中は少しずつ住みよいものになっていくだろう。何故なら想念は波動であり、心から相手の平安を願って見守っていれば、やがてその思いは響いていくだろうからだ。もし相手に言葉で伝えたいなら、『何も力になれないけれど、あなたのことを忘れているわけではありません』、あるいは『何もできないけれど、いつも心に思っています』といった言い方をすればいいだろう。人は自分を見捨てず、忘れず、じっと見守ってくれる人がいると思うと、相当な逆境にあっても頑張れるものだ。</p>

<p>愛はイエスのように人類の罪を一身に背負うといった暗いものではない。すなわちみすぼらしいものでも、悲しいものでもない。心と心が触れ合い、共鳴することによって歓びを生むものだ。歓びがあれば人はどんな困難にも立ち向かうことができる。今誰かに助けを求めている人は、まず自分から誰かを助けることを考えてみるのがいい。『情けは他人(ひと)のためならず』という言葉があるが、他人を助けることがやがて自分を助けることになる。これは単なる理想を述べたものではない。現実の経験を通して分かったことを述べているのだ。『愛は助けるものを助く』ということだろう。<br />
</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">愛、博愛</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 15 Mar 2012 22:32:05 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>神をめぐる愛</title>
            <description><![CDATA[<p>ここで一つ疑問を提示しよう。いかなる宗教もまず至高の神を示し、その神に祈れという。キリスト教の場合は神を愛せともいう。なぜ神に祈り神を愛さなければならないのだろう。それによって人類に幸がもたらされるのだろうか。神と人間の関係よりも、まず人間同士で幸せを祈り、愛を分かち合った方が幸せを実現できるのではないだろうか。しかし宗教においては人間ではなく、まず神なのだ。何故だろう。</p>

<p>神々＝異星人はある動物に自分たちの遺伝子を混ぜ合わせて人間を造ったという。とすると彼らは人間の生みの親ということになる。ただし彼らは人間を崇高な生き物として創造したわけではない。プレアデｲス＝プレヤール人によれば、人間は初め奴隷として造られたのだという。また日本の記紀神話の蛭子(ひるこ)の記述を見れば、彼らは高度なテクノロジーを用いて人間を造ろうとしたものの、何度も失敗を繰り返したことが窺える。何故ならその過程で蛭子、すなわち手も足もない奇形児を生み出したからだ。記紀神話には『蛭子は子供の数に入れない』と書かれているので、試行錯誤の過程で葬られたいくつのも失敗作があったと思われる。</p>

<p>とはいえ最後には今のような人間が生み出された。聖書には『神々が人の娘の美しいのを見て彼女らの中に入り子を産ませた』という記述があるので、もしこれが人間を造った目的なら、人間はペット、すなわち愛玩動物として造られたことになる。またシュメール出土の粘土板には『神々＝異星人は肉体労働を肩代わりさせるために人を造った』ということが記されているそうなので、だとすれば人間は奴隷として造られたことになる。</p>

<p>いずれにせよ人間は聖書で言うように(神々＝異星人のような)完全なものとして造られたわけではない。しかも驚くべきことに、造られた時点では人間はまだ自意識を持っていなかったらしい。そのため神々＝異星人の思惑どおりに事が運び、しばらくの間、人間は彼らの言われるままに従っていたらしい。</p>

<p>しかしある時、ついに人間は自らの意識に目覚め、意思を持つようになった。おそらく神々＝異星人はこの事態に至ったことに歯噛みしたに違いない。創世記の記述からはその時の彼らの苛立ちが如実に伝わってくる。しかしすでに人間は彼らの人形ではなくなってしまった。これは歴史上初の、人間自らによる奴隷解放だったと言えるだろう。</p>

<p>聖書には、<br />
『見よ、人は我々のひとりのようになり、<strong>善悪を知るもの</strong>となった』<br />
とある。<br />
しかしこの善悪という言葉は後から書き換えられたものか、でなければ最初から意図的に真実を隠すために当て嵌められたものだろう。<br />
私に言わせれば、<br />
『見よ、人は我々のひとりのようになり、<strong>意識を持つもの</strong>となった』<br />
と書かれるべきものだったと思う。すなわち本来あったはずの表現は、後の誰かによって改竄されて善悪に置き換えられたのだと思う。</p>

<p>このように人間が意識に目覚めたことで『楽園追放』となり、いったん神々＝異星人の手を逃れた（ちなみに『失楽園』はイギリスの詩人ジョン・ミルトンが17世紀に書いた叙事詩の題名だ。この題名をそのまま使って日本の作家が訳の分からない小説を書いている）。しかし神々＝異星人は手をこまねいていたわけではなく、意識を持ってしまった人間をどうコントロールすべきか策を練っていたと思われる。そして支配のためには宗教を用いて洗脳するのが最も効果的だという結論を得たのだろう。彼らはどうしても人間に君臨したかったので、そのために宗教を押し付けて人間を洗脳し、言うことを聞かなければ災いを起こして脅し、自分たちに注意を向けさせるために『まず第一に神に祈れ、まず神を愛せ』と強要したのだと思う。</p>

<p>しかし実はこの時点で神々＝異星人は一枚岩ではなくなっていたらしい。すなわち徹底した支配を望む側と、人間の意思を一定程度尊重しようとする側とに分かれていたらしい。これには彼らの事情もあったが、被造物としての人間の深刻な問題も絡んでいた。というのも人間が彼らによって造られた不完全な生き物であったために、『失楽園』の後、我欲と征服欲のためにたちまち殺戮に明け暮れるようになったからだ。したがって人間を放置しておけば、やがて滅んでしまうのが目に見えていた。</p>

<p>そこで人類を滅びから救うために、処方箋として宗教を用いることに対立していた神々＝異星人の双方が合意し、地上の人間を使って、地域と時代に適した宗教を広めさせた。結論を言えば、神々＝異星人の宗教を広める計画には、支配と人類の延命という二つの目的があったことになる。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/love03.jpg" alt="神をめぐる愛" class="img_left" />ここで宗教が説く『教え』について少しだけ触れておこう。あらゆる宗教が教理の主柱に据えているのは、実は幼稚園児に教えるような当たり前のことばかりだ。その典型がモーゼの十戒で、盗むなかれ、殺すなかれ、偽証するなかれ、父母を敬えなど、どこの民族でも普通に教訓としていることを言っているに過ぎない。この教えは人類の支配を目的としていたというより延命させることを目的としていたのだろう。</p>

<p>とはいえこんな最低限のことさえ人類は守れず、信頼や親睦を根付かせるどころか、逆に争いや奸計や偽善や憎しみをはびこらせ、さらには殺人や戦争を常とするようになってしまった。こうした状況はこれまでの全歴史を通じて変わっておらず、今も全く変わっていない。神々＝異星人が意図した延命は何とか今まで保たれてきたが、世の中は宗教で説かれる愛の世界とは正反対の状況に向かってきた。</p>

<p>このように見てくると、この先人類には二つの道しかないように思えてくる。一つは自ら滅びへと突き進む道であり、もう一つは神々＝異星人に洗脳された後、再び彼らの奴隷になる道だ。では第三の道はないのだろうか。これについて少し説明をしよう。</p>

<p>この宇宙は階層的構造を持っている。我々が住んでいる物質世界は完全な物質だけの世界ではなく、人間が精神を持っているように霊的要素を含んでいる。すなわち物質と霊性が共存する世界だ。もっと波動数の高い世界では物質的要素はより少なく、非物質的エネルギー、すなわち霊的エネルギーがより多く支配する世界となる。</p>

<p>この二つの世界について言えば、どちらか一方が消滅した場合、他方が成立しないようになっている。というのも、この物質世界の情報は常時霊的世界に送り込まれ、それによって霊的世界が組み替えられ、さらに情報はそこで精査され整えられて、再び物質世界に送り戻されるということを繰り返しているからだ。このように宇宙は多次元的構造をしているので、多くの隣り合う次元で、この物質世界と霊的世界のように相互に情報のやり取りがおこなわれ、互いの有機的な結び付きが保たれている。</p>

<p>完全な支配を望む側ではなく、人間の意思を尊重しようとする側の神々＝異星人が人間の注意を自分たちに向けさせようとしているのは、(『ひふみ神示』に述べられているように)お互いに向き合ってまつわらなければ多次元宇宙のバランスを保つことができないという理由があるためらしい。この『まつわる』という言葉には、纏わる、祭わる、祀わる、奉わる、などの字が当てはまる。しかしもともとは一つで、神々＝異星人と人間の本来のあるべき関係を表している。我々人間は神々＝異星人とまつわることによって幸わう(さきわう：豊かに栄える)ことができるのだという。</p>

<p>さて話を本筋に戻そう。これまでの考察から何故神に注意を向け神を愛さねばならないか、いくつかの推論が示された。しかし冷静に考えてみると、たとえこれらの推論が正しいとしても、我々人間同士の関係は一体どうなるのかという疑問が残る。人間と神々＝異星人が共存できたとしても、人間同士が互いに思いやり信頼できるようにならなければ、滅びを免れることも、住みよい世の中を作り出すこともできないだろう。</p>

<p>多くの経典はまず第一に神に祈れ、神を愛せと言っているが、これまでそれを人間が実行してきたかこないか分からないが、結果的にこの数千年、世の中は良くならなかった。これは何を意味しているのだろう。やはりこの世の中を良いものにするには、神々＝異星人との関係よりもむしろ、人間同士の関係から改善しなければならないことを示唆しているのではないかと思う。したがって今後は『まず神を愛し、次に隣人を愛せ』という聖書の教条を改め、『まず隣人を愛し、それから神々＝異星人とも纏われ』としなければならないだろうと思う。</p>

<p>今この時代の多くの人々は学校教育やマスメデｲアによって受けた洗脳により、重篤な病にも似た症状を呈している。そのため多くの人は神々も異星人も霊界人も存在しないと思っているかも知れない。しかし太古より自ら創造した人間を永遠に支配しようと目論む者たちが、政治や学校教育やマスメデｲアを操って人間を洗脳し続けている。一方創造者の中でも、人間の運命は人間の意思に委ねようとする者は、この洗脳から目覚めるよう我々を促している。</p>

<p>我々は神々＝異星人と関わりないと思うのではなく、また(スピリチュアル系も含め)宗教にのめり込んで神々＝異星人を崇拝するのでもなく、まず洗脳のからくりと仕掛けを知り、それを切り崩すために隣人を気遣う(愛する)ことから始めなければならないと思う。何故なら人間同士が良好な関係を築くことが人間を成長させ、目覚めを促して、結果的に洗脳計画を破綻させる有効な手立てとなるからだ。もしそれができたとすれば、そのとき我々は神々＝異星人と真に向き合うことが可能になるだろう。そうすれば第三の道はおのずからその先に拓けるに違いない。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/201203/15_222752.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">愛、博愛</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 15 Mar 2012 22:27:52 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>現代の二つの愛</title>
            <description><![CDATA[<p>では具体的にマスメデｲアで使われている愛について考えてみよう。テレビ番組や様々な本や雑誌などに出てくる『愛してる』という言葉は何を意味しているのだろう。単に好きだというなら分かるが、愛という言葉を使うので意味不明となっている。まずは基本的な問いから始めよう。</p>

<p>『好きだ』というのは自分の気持ちを表明しているだけで、それ以上でも以下でもない。これは非常に分かりやすい。しかし『愛している』といった場合、好き以上の何かが含まれている感じがある。ではいったい好きと愛してるとはどこが違うのだろう。</p>

<p>『好き』は本人の気持ちを言い表しているだけなので、それ自体で完結している。しかし『愛してる』にはこの後に『だから...』という付随するものを伴っているように感じられる。そこには『相手のために何かしたい』、『相手に好かれる自分になりたい』、『相手をもっと知りたい』などいくつかの気持ちが含まれているだろう。ではこれらの気持の背後には何が横たわっているのだろう。それら一つひとつの糸をたどっていくと、ある共通する概念に行き着く。それは<strong>相手に対する絶対的肯定</strong>だ。どんな人間も、すなわち他人に対して普段どんなに批判的な人間も、恋に落ちると相手を全面的に肯定して止まなくなる。相手の人格も言葉も態度も全面的に肯定する境地に至る。</p>

<p>我々は絶対性や完全性の欠けたあやふやな世界で生きているが、しかし恋に落ち、愛していると思うとき、全的肯定を経験する。普段、人は自分に対しても他人に対しても全的に肯定することはまずない。しかし恋に落ちた時、我々は相手の存在が<strong>価値そのもの</strong>であると感じ、それに向き合う自分は（否定されるべきものという気持ちよりはむしろ）限りなく謙虚であろうとする気持ちに向かう。この相手に対する絶対的肯定と、自分に対する限りない謙虚さは何を暗示しているのだろう。それは人に、知恵なるものがどのような心的状態の時に与えられるかを示しているのだと思う。すなわち人がものを知り、あらゆるものと調和しながら生きていくには、こうした全的肯定と限りない謙虚さが必要なのだと示唆しているように思う。</p>

<p>しかし残念なことに、その気持ちはたちまち消え失せてしまう。まるで相手への全面的肯定と自分への限りない謙虚さが一瞬の夢であったかのように。男と女は体を許し合い、付き合いが進むにつれて、自らの傲慢さに支配されるようになる。やがてその気持ちは相手に対する批判や否定へと発展していく。そしてその時、人の中で崇高な価値は失われる。</p>

<p>マスメデｲアが流す『愛』・『愛してる』という言葉は、我々の心をくすぐって『ひと時の価値』を思い起こさせたりはするが、しかしそれはかえって絶対的肯定へ向かう道程を空しい漂泊に貶(おとし)めている。</p>

<p>では次にイエスが目指した純粋な精神愛について考えてみよう。この愛は仏教で言う慈悲に相当すると考えられる。平たく言うなら他の人を思いやることだ。しかしこの愛には落とし穴がある。人は誰かのために何かをした時、それを当然のこととしてやり過ごすことがなかなかできない。多くの人は心に何らかの感情を抱くはずだ。それはあえて言えば驕(おご)りだ。我々にとって誰かのために行動することはそれほど難しくはない。それは皆が心に善なるものを持っており、それに導かれるからだ。しかし多くの場合、それによって優越感や支配感や恩着せ感といった驕りを抱え込むことになる。これが心に宿ってしまったら、たとえ善意による行動であっても、イエスの言う愛にはならない。ここにアガペー(精神愛)の難しさがある。</p>

<p>これまで欧米では2000年に亘ってイエスの愛が説かれてきた。しかし残念ながら人々の間の争いも、国の間の戦争もなくならなかった。それは多くの人がこの驕りに取り付かれ支配されてしまったからではないだろうか。歴史の事実は驕りを脱することの難しさを示している。</p>

<p>ひとつ例を挙げよう。旧約聖書に『ヨブ記』があるが、ヨブは敬虔なユダヤ教徒で、神を畏れ悪から遠ざかり、他の人々にも愛や施しを行なっていた。彼には7人の息子と3人の娘がいた。また7000頭の羊、3000頭の駱駝、500頭の牛、500頭のロバ、そして多くの僕(しもべ)を持っていた。すなわち彼は神に祝福された大いなる者だった。</p>

<p>ところがある時、エホバから許しを得たサタンの計略によって、次から次とヨブに不幸が襲いかかる。近隣の他民族が彼の僕を殺し、羊や駱駝やロバなどの財産を奪い、また天からは火が降り、大地からは大風が起こって、ヨブの家畜と僕は次々と滅ぼされてゆく。それでも彼は神に背くことなく、髪を剃り、上着を裂き、大地にひれ伏してエホバを祝福する。</p>

<p>しかしヨブにはさらに、全身すなわち足の裏から頭の先まで、いたるところに腫物(はれもの)ができるという禍が襲いかかる。彼は灰の中でのた打ち回り、陶器の破片を取って身を掻く。これらの恐ろしい禍を見ていた妻はついに堪えかねてヨブに言う。あなたはそれでも自らを全うする（信仰を貫く）のですか、神を呪って死になさい、と。だが彼は神への忠誠を翻さず、全ての息子と娘を失うというさらなる不幸に見舞われながらも、決して神を呪うことはなかった。</p>

<p>この話は最終的に、忠誠心を翻さなかったヨブに神が応え、サタンの試みを止めさせて、ヨブの原状を回復し、さらに元の倍もの財産と恵みを与えるというところで終わる。いったいこのヨブ記は何を言いたかったのだろう。一般的には、どんな不幸にあっても神を呪わず、忠誠を貫けばいつか報われるという、宗教に最もありがちな教条的な詭弁を代表する逸話として解釈されるだろう。</p>

<p>しかし本当の問題は忠誠や報いにあるのではない。なぜ信心深くかつ富み栄えていたヨブがこうした過酷な試練に会わねばならなかったかに問題がある。それには理由があるはずだ。単なる神の気まぐれやサタンの疑いの餌食になっただけではないはずだ。</p>

<p>答えは聖書自体には記されていない。しかし20世紀になってC.G.ユングが『ヨブへの答え』と言う本の中で説明を試みている。すなわちヨブには何一つ神に対するやましい気持ちがないばかりか、周りの誰よりも神に忠実で、いかなる誹謗中傷があろうとも決して神を裏切らない自信を持っていた、とユングは分析した。すなわち、ヨブは自分には誰にも負けない信心があるという<strong>驕り</strong>を持っていたのだと。この驕りこそがサタンが付け込む隙であったとユングは言う。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/love02.jpg" alt="現代の二つの愛" class="img_right" />我々の認識は危ういところで成り立っている。誰しも絶対と思った知識や絶対と思った判断に裏切られたことがあるだろう。歴史を見ても、大多数の人が思っていた事柄が間違いだったことが判明するということが多々ある。中世の西洋人は地球は平らだと信じていたにも拘わらず、いとも簡単に間違いだと証明された(簡単に受け入れられたわけではない)のは、その典型的な例だ。我々は何百年、何千年にも亘って誤った認識を持ち続けてきている。現代科学にしても今は最高の認識手段のように思われているが、そう思っている現代人も、遠くない将来に愚か者と言われることになるかもしれない。何故ならいつ始まったかもしれない我々の歴史を振り返ってみれば、人類は一度も永遠不変の真理など発見したことがないからだ。これまで何度も我々の認識は修正され、または何度も全く新しいものに置き換えられてきたのが歴史の事実だ。</p>

<p>ヨブは絶対的な自信を持っていた自分の信心に、実は驕りという悪魔が潜んでいることに気付かなかった。そのため自分の認識に対する過信が、大きなしっぺ返しとなって彼を襲うことになった。我々はイエスの説いたアガペーにそうした落とし穴があることを知らなければならない。それはイエスさえも言わなかった認識のからくりだ。『私はこんなにもあなたを思っているのに』、『私はこんなにも他人のために尽くしているのに』、『こんなにも家族のために一生懸命働いているのに』等など、例を挙げればきりがないが、これらは全て自分の高慢な驕りから出てくる言葉だ。</p>

<p>人は見返りを求めてはいけないと思いつつもついつい求め、誰それのため、何々のためと言いながらもその誰かまたは何かに依存している。真に隣人を愛するには、まずこの心の闇と向き合わなければならない。もしこの闇と向き合うことができたら、そこに微かな悪魔の囁きを聞くだろう。我々の針の先ほどに思える過信は、氷山のようにその下に巨大な驕りを抱えている。我々はそれと向き合い認めることはできるだろうか。どんなに困難であろうと、それを認めなければアガペーは実現しない。すなわち平安と歓びをもたらす真の愛は、その厳しい認識を超えた先に初めて見えてくる。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/201203/15_222215.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">愛、博愛</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 15 Mar 2012 22:22:15 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>歴史的背景</title>
            <description><![CDATA[<p>意外に思うかもしれないが、愛については民族や宗教を超えた一般的な説明はされていない。言い換えれば、愛とは何かという質問に対して、国家や民族や宗教を超えて同じ答えが返ってくることはない。実は愛に関しては一般的な定義がないだけでなく、戦後のマスメデｲアの無節操な使用や個人の勝手な思い込みによって、本当はどういう意味かほとんど誰にも分からない状態になっている。</p>

<p>哲学上では古代ギリシアのプラトンが唱えたイデア論が、私の知る限り曲がりなりにも愛を定義した唯一の思想だ。プラトン以降、アリストテレスやスピノザやカント、果てはマルクスやニーチェやサルトルまで、幾人もの哲学者がそれなりに愛について述べたが、みな理性なるものに偏重して感情を低く見ていたり、まるで定規で測るように愛を論じていたりなど、文章や論理が難しいだけの独りよがりな空論を述べていて、生身の人間の生きた愛を説明しているとは思えないものばかりだ。</p>

<p>彼らから受ける印象は、複雑で入り組んだ人の心の奥深い現実や、社会の中で翻弄されながらも這いつくばって生きる人間の生き様などを、果たして知っていたのかどうか疑いたくなるものだ。言い換えれば、頭でっかちのお坊ちゃんが机上で空論を語り、自分だけの狭い世界で愛や人間を分かった気になって論じていたように思えてならない。</p>

<p>日本の知識人も明治以降、そして戦後まで、こうした西洋の哲学を有難く崇めていたのだから、欧米の哲学者よりさらに始末が悪いと言えるかもしれない。こうした現実知らずのお坊ちゃん連中が議論に明け暮れているうちに、世の中はすっかり変わってしまい、取り残された哲学は自ら凋落(ちょうらく)の憂き目に会った。</p>

<p>宗教上で言えば、すべての宗教宗派が愛について特別多くを述べているわけではない。世界四大宗教の中では特にキリスト教が愛を至上のものと位置づけてこれを熱心に述べている。新約聖書(＝キリスト教)の言わんとしていることを一言で言えば次のようになる。『何よりもまず神を愛しなさい。そして次にあなたの隣人を愛しなさい』。イエスはこれだけを言いたかったのだと極論できる。</p>

<p>その後2000年、イエスの教えは欧米のキリスト教圏を中心に広まったが、そこに生きた人々は果たしてそれを実践して平安に暮らしたのだろうか。一つの見方(学説)としては中世ヨーロッパにおける庶民は平安に暮らしたという評価がある。しかし一般的には神に祈りを捧げるだけの、神を中心にした禁欲生活が営まれた暗い時代と位置づけられている。</p>

<p>他の宗教（仏教、ヒンドｳー教、イスラム教、旧約聖書＝ユダヤ教など）は愛を前面に打ち出しているわけではなく、教え全体から見れば愛は部分的に述べられているだけだ。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/love01.jpg" alt="歴史的背景" class="img_left" />現代において愛が大きく取り沙汰されているのは、自由な恋が許される社会状況になったため、多くの人が恋を見間違って愛と呼び合っているからだ。パンダの研究が進んだ結果、雌のパンダが妊娠できるのは(すなわち雄を受け入れるのは)わずか年に3日間だということが判ってきた。この３日の間に雄と雌は広い森の中で巡り合い交尾をしなければならないので、合意するのが大変だそうだ。さてこの興奮の交尾期間を、互いに愛を育て愛を表現する期間だと表現できるだろうか。人間の学者は見下すような言葉を用いて、これを発情期と名付けた。では人の場合は発情期と言ってはいけないのだろうか。私から見れば人の場合もパンダの場合も同じく発情期に相違ないと思う。しかも人間の場合は始末が悪いことに、発情期は思春期から死ぬまで続く。そしてそれを人々は愛だと言っている。本当にそうだろうか。</p>

<p>プラトンが唱えたエロスは単なる肉体の性的興奮を言ったのではない。これにはちょっとした奥義がある。生成変化する物質界の背後にはイデアという理想の模範的世界があり、我々は生前そのイデアという真の実在世界を知っていたが、この世にやってくるときに、修行や試練の邪魔になるので記憶を封印さた。しかしその封印されたものは、精神の目で『想起』することによって再び得られるという。そしてその『想起』によって、かつて属していたイデアの世界への憧れとしてのエロス(＝愛)が生まれるという。</p>

<p>プラトンも他の同時代の哲学者と同じく、奴隷に労働を任せていた苦労知らずのお坊ちゃんの面は拭えないが、彼のイデア論は現代の我々の感性に通じるものがあり、霊性を完全に抹殺した近代西洋哲学とは一線を画していて、目に見えない世界をも含めた宇宙を語ろうとしている。特に彼が説いたイデアの世界への憧れから生じる愛(＝エロス)は、肉体的性的興奮を超えた彼方にある、美の極致への希求を意味していると解釈できる。</p>

<p>時代が下った古代ローマ帝国時代のカナンの地で、イエスはギリシアで生まれたこのエロス(＝愛)を知っていたかどうか定かではないが、彼はエロスとは違うアガペーという愛の概念を提唱した。それは肉欲を全く含まない純粋な精神愛だと解釈されている。確かに同胞や人類全体に対して、さらには一切の生き物に対しては純粋な精神愛は可能かも知れない。しかし男女の間においては果たして可能なのかどうか、今の時代になってもなお疑問が残るとされている。</p>

<p>もしイエスの言う愛が男女の間で徹底した禁欲を伴うものだとしたら、それは歪んだ愛としか言いようがない。修道院で禁欲的な生活を続け、生涯結婚もせず、異性との交わりも持たない修道僧が愛について説教するのは笑止千万と言うべきだろう。にもかかわらず修道士や修道女がカトリックの国においては尊敬され、精神的指導者の立場に置かれ、多くの人々が彼らの説教を有難く聞いているのだから、これはどう見ても歪んだ現実と言わざるを得ない。</p>

<p>また現代に目を向ければ、テレビ、ラジオ、雑誌などのマスメデｲアで使われている『愛』も甚だ陳腐としか言いようがない。単に外見上の魅力から好きになっただけなのに、すなわち性的興奮から関心を持っただけなのに、それを『愛』だと言い合っているいるからだ。マスメデｲアはこの発情期ゆえの興奮を愛という言葉に置き換えて蔓延させ、多くの人たちに自分には愛があると錯覚させている。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/201203/15_221459.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">愛、博愛</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 15 Mar 2012 22:14:59 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ご挨拶</title>
            <description><![CDATA[<p>＜読者へ＞</p>

<p>ここで、この長い長い『現代未解決問題取扱所』を最後まで読んで下さった方にお礼を申し上げたいと思います。これまで様々な問題を取り扱ってきましたが、最後は以上のような内容で終わりを迎えることになりました。これは私にとっておよそ50年にわたる思索の一応の結果と言えます。とはいえ読んで下さった方には、あくまでも一つの考えであり、参考意見に止まるでしょう。それは私の望むところでもあります。</p>

<p>私がこのホーム・ページを書き始めて約5年、様々な方に情報をいただき、ご批判や励ましをいただきました。今ここで、読者を含めそれら全ての方に感謝し、お礼を申し上げます。ありがとうございました。</p>

<p>さて、時の周期は終わりに近づいたと感じられます。しかし我々凡夫にはその時がいつで、どのようなものになるのかは知る由もありません。ただ私はその大きな周期の終わりが来るまで、この世を少しでも住みよい、真っ当なものにするために精進努力していきたいと思っています。それが地球で転生を繰り返してきただろう私の最後の務めだと思うからです。</p>

<p>そしてもし、私が新しい世界に生き残っていたとしたら、おそらく新しい世界に生き残っておられるだろうあなたと、対面してお話しするのを楽しみにしています。その期待を胸に、これから訪れるだろう過酷な、最後の試練に立ち向かおうと思います。</p>

<p>あなたの御霊(みたま)が浄化されますように、そしてあなたが、あなたの試練に挫けることなく強くあられますように、心からお祈りしています。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">お知らせ</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">普遍的事実</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 08 Mar 2012 19:18:40 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>宇宙の本質</title>
            <description><![CDATA[<p>まどろみの中で森羅万象を顕現させている超越存在は、大いなる創造の前にどんな特徴を持つ宇宙を思い描いたのだろう。この宇宙の一切は意識的存在なのだから、そこにある存在が見せる表情を読み取れば、性質の一端を窺い知ることができるだろう。</p>

<p>例えば犬や猫の仔はおそらく誰が見ても可愛いと感じるだろう。犬猫に限らず、あらゆる生き物の仔はどこかしら愛らしく感じられる。悪者扱いされている捕食動物であってもその仔は可愛い。この可愛さはどこから来るのだろう。人の子も生れてしばらくの間は理屈抜きで可愛い。それはおそらく幼児が、我欲も見栄も嘘も未だ知ることなく、心が真っすぐで下心も駆け引きもなく、親の懐に抱かれてこの世の一切を信頼し切っているからではないだろうか。これは人間だけに限らない。動物の仔があのように可愛いのも、親の懐で一切を信頼し切っているからに違いない。人間や動物だけではない。花々があのように美しいのも、心が真っすぐだからだ、と言った人がいる。</p>

<p>私は一歳未満の時の記憶を持っているが、まだ立つことはおろか身体も自由に動かせない状態で蒲団に寝かされたままだったが、なぜかルンルン気分だったのを憶えている。動物の中には生まれて間もなく動けるようになるものもいるので、兄弟でじゃれ合ったり、かじりついたり、重なり合ったり、精一杯ルンルン気分を表現しているのだと思われる。</p>

<p>これら穢れのない生命の表情を見ていると、そのはちきれんばかりの躍動の姿が宇宙の本質を表しているように思われる。その本質とは『歓喜』だ。この歓喜こそが、我々が長いあいだ目が曇っていたために見えなかった宇宙の本質ではないだろうか。</p>

<p>歓喜には不思議な特徴がある。例えば悲しみなら何らかの理由があってそうした感情に陥る。怒りの感情もそれなりの理由があって起こるはずだ。しかし歓喜には、～ゆえに、～がために、といった直接的な原因がなくても起こり得る。動物の仔が無邪気にじゃれ合っているのを見ると、まさに歓喜を全身に溢れさせている姿だと思えるだろう。我々も目が覚めて青々とした木々の枝の間からあふれる木洩れ日を見た時、心に歓びが湧き上がってくるのを感じるだろう。これらは生きとし生けるものはその魂に、本源的に歓喜が備わっているからだと考えられる。本源的に備わっているため、自然や宇宙と結びついた時、歓喜は魂の奥底から湧き出てくるのだろう。我々は様々な心のゴミを抱え込んでしまったために、歓喜が湧き出る隙間を塞いでいるが、そのゴミを取り除けば、宇宙が本質として持っている歓喜が溢れ出てくるはずだ。</p>

<p>美しい顔になりたい、美しい体形になりたい、儲かる仕事がしたい、肩書が欲しい、土地が欲しい、家が欲しい、金が欲しい、女が欲しい、男が欲しい、権力が欲しい、他人(ひと)に命令したい、他人に影響を与えたい、世間に認められたい、称賛を浴びたい等など、心のゴミは数限りなく生まれてくる。歓喜を得るためにはこの膨大なゴミを掃除しなければならない。もう少し言えばこれらと対をなすゴミもある。仕事をしたくない、新しいこともしたくない、趣味も持ちたくない、他人と関わりたくない、お金も肩書も要らないから何もしたくない、生きているのも面倒だし、できればひっそりと死んでしまいたい、といったものだ。これらも自分の成長や向上に抵抗しているわけで、心の大きなゴミと言える。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/fufen07.jpg" alt="宇宙の本質" class="img_left" />これら全部を抱えている人はいないと思うかも知れないが、実はそうとも言えない。これらは自分の心の面(おもて)に現れた時に初めて認識できるもので、そうした状況に置かれなければ心の奥底に潜んだままであり、知ることはない。したがってそれを認知できない段階では、自分には初めからないものであり、自分はそうした問題を超越したレベルで生まれて来たかのように思っているだろう。しかし自分を色々な局面に置くような人生を歩む人は、次々と自分の中から飛び出してくるこの汚物に振り回され、自分の心の闇の深さに戸惑うことだろう。</p>

<p>何故人はこうも深い闇を抱えているのか。それは闇といえども宇宙の一部に違いなく、我々の心は宇宙全体を内包しているからだ。すなわち我々の心に一切が存在しているが故に歓喜も、歓喜を覆う闇も必然的に抱えているわけだ。とはいえ先にも述べたように、光と闇といった二元論的な捉え方は分かりやすいけれども正しくない。それは闇は実体ではなく虚像に過ぎないからだ。高い次元から見れば、闇は光の間で蠢く影であり、いわば光を通さない荒い物質界の中で出来る影のようなものだ。したがってそれは実体ではない。けれどもそれは虚像であるが故に我々を幻惑する。</p>

<p>さてこの世の大きな問題として、真実と幻想、光と闇、洗脳と目覚めなどがあるのをこれまで述べてきたが、このほかに自由意思という大きな問題がある。我々は常に幅広い選択肢からどれかを選んで生きている。すなわち一般に選択の自由と呼ばれているものが我々にはある。現在の日本人にはそれほど不思議には思われないかも知れないが、これほど謎に満ちたものもない。それは我々はこれがあるために神のようにもなり得、餓鬼畜生のようにもなり得るからだ。この意味するところは何なのだろう。</p>

<p>蜘蛛や蟻は選択の幅が少なく、真っ直ぐな心で宇宙の智恵をいただいて生きている。もし蜘蛛に巣網を作らないという選択肢があったとしたら、その蜘蛛は別の生き方で食べ物を確保しなければならなくなる。もしそのような生き物になったとすれば、蜘蛛は幅広い選択肢の中から、自分なりの生き方を構築しなければならなくなる。もし全ての生き物がこうした自由意思を持っていたとしたら、自然はその調和と均衡を保つことはできないだろう。何故なら生き物たちはそれぞれ役割に応じた生き方をすることによって自然の絶妙なバランスに寄与しているからだ。したがってこれらの生き物たちにははっきりした存在理由があり、それらの一種が欠けても自然は均衡を失うため、再調整されなければならなくなる。</p>

<p>バランスに関しては、例えばアフリカのセレンゲテｲーのライオンが草食動物を食べ尽くすということが起こっていないことからも解る。逆の視点から見れば、草食動物はライオンによる捕食があることによって異常な繁殖を抑制され、それによって草を食べ尽くして自ら滅びの淵に立たされることを免れている。こうしたことは自然の生き物たちが互いに絶妙な関係を保ちながら生きていることを示している。ライオンと草食動物という、たった二つの関係においてもそうなのだから、この惑星全体の生き物たちはどんな神憑り的な均衡を保ちながら生きているのか想像も及ばない。</p>

<p>しかしこれら全ての生き物の中で、唯一この均衡を壊すことのできるモンスターがいる。それが幅広い自由意思を持つ人間だ。人間だけは極端な自由度を持つために、他の生き物たちと共存もできれば、他の生き物を滅ぼすことも、自らを滅ぼすこともできる。創造の『気』から宇宙を現出させた超越存在は、何故この人間という生き物の存在を許したのだろう。</p>

<p>それには『選択の自由』という、今まで一度も明らかにされたことのない謎を解かねばならない。ファーブルの昆虫記にある「松の行列虫」の話を読むと、選択の自由が人間だけに備わったものでないのが分かる。この目を持たない松の行列虫は、前を歩く虫が出す道標(糊のようなもの)を頼りに行進する性質を持っているが、ファーブルはこの虫が遠くから来て松の鉢の縁を一回りしたところで、やって来た道の痕跡をこすり取ってしまった。すると当然行列虫はその鉢の縁をぐるぐると回ることになった。すなわち帰る道を失った行列虫は、この堂々巡りを延々と繰り返し始めたのだ。その絶望的な行進はいつ終わるともなく続いたが、数十時間の後、ついに一匹の革命児が現れ、道標のない横脇へ少しだけはみ出した。何度も何度もこの革命児ははみ出しを繰り返し、とうとう新しい道を切り拓いて皆を帰路へ導くことができたのだった。</p>

<p>これは明らかに松の行列虫にも選択の自由があることを示している。しかしそれは人間の持つ自由とは比べようもない。人間の選択の自由度は遥かに大きく、それは質的な違いにまで及んでいる。もし人間以外の全ての生き物が全く自由度を持っていなかったとしたら、それらは単なる自動機械に過ぎないことになり、生物とは言えなくなるだろう。逆に人間と同じような自由度を全ての生き物が持っていたとしたら、先ほども言ったようにそれぞれの生き物が自分独自の行動を取るようになり、地上の生物の均衡は崩れて大混乱を来すだろう。しかし実際は、生物はそれぞれ違う自由度を持っていて、宇宙の智恵をいただきながら、互いの関係が均衡を保つよう無意識的に調整されている。すなわち僅かな自由度が許され、それがあるために均衡が保たれ、しかもその自由によって均衡に活気を与えている。</p>

<p>ライオンが草食動物を食べ尽くすことがないように、蜘蛛も繁殖して世界中を蜘蛛の巣だらけにすることはない。地上が蟻で埋め尽くされたり、森がイヌワシで覆い尽くされたりもしない。これは少ない自由度の中で彼らが謙虚に生きている証拠であり、謙虚であるが故に宇宙の智恵が流れ込み、そのことが全体の調和を崩れることなく保って、全ての種を過不足なく存続させていることを示している。</p>

<p>しかし人間の自由度は桁違いに大きいため、それをどう使うかによって神のごとくにも悪魔のごとくにもなり得る。このような危険な自由度を創造者は何故人間に与えたのだろう。それは全ての生き物は歓喜の王道へ向かう途上にあるが、その王道に至る手前の避けることのできない通過点に人間を置いたからだ。我々は自由な選択によって過ちや失敗を体験し、様々な苦痛や悲しみを経験するが、最後には歓喜の王道に繋がる道に目覚めて、この三次元の輪廻転生を卒業するように計画されている。</p>

<p>我々は今まで何度生まれても目覚めることなく、ずるずると今回もこの三次元に生まれてしまった。しかし今回のこの時代は地球が変わりつつあるため、この地球上の生活としては最後になる。したがってこの生では、自分が次にどの道に向かうかを選択するよう義務付けられている。どの道を選ぶにしても宇宙の本質は歓喜なので、皆自分にとっての歓喜を基準に選ぶことになる。</p>

<p>例えば世の中にはひたすらお金が好きで、使うよりも貯めることに歓びを感じる人がいる。このような人の中には、あの世へ持っては行けないでしょうと告げても、持って行きたいから棺桶に入れてほしいとまで言う人もいる。こうした人でもお金によって歓喜を味わっているので、宇宙の本質に沿って生きていると言える。喧嘩や戦いの好きな人は常に好戦的な波動を出しているので、周りに次々と騒動が起こり絶えることがない。こういった人たちもその騒動に血沸き肉踊るので、歓喜の中で生きていると言える。次々と悩みごとを抱え込み「大変だ、大変だ」と言って生きている人は、本人から全ての悩みを取り上げてしまったら安心するどころか発狂するかもしれない。こういった人は悩みが心の支えとなり、一種の歓びとなっているからだ。出口王仁三郎は『霊界物語』の中で、幽界の下層部に行ったら、薄暗い中で腐臭漂うヘドロの穴か糞壺にじっと身を沈めている存在を見たと言っている。これでさえ本人にとっては歓びなのだ。</p>

<p>人間は皆歓びに沿って生き、歓びを享受している。しかしそれらが皆、大いなる歓喜へ繋がる歓びとは限らない。限定され狭まってゆく歓びと、さらなる解放と充実に向かう歓びとがある。言い換えれば闇に向かう歓びと光に向かう歓びがある。歓びがさらに高揚し輝きを増していく道が『歓喜の王道』だ。人はどんな辛い悩ましい経験をしようとも、やがてこの歓喜の王道に入っていく。</p>

<p>もう一度言うが、多くの人が解脱(げだつ)の手前で何度も足踏みしてきたが、今のこの時代、この生は最終的な選択をしなければならない生だ。すなわち再び王道の手前で足踏みするか、それとも目覚めて歓喜の王道に入るかが決められる生だ。足踏みする者は地球が波動を高めるのでそのまま生き残ることはできず、この地球と似た波動を持つ他の惑星へ行き、さらに輪廻転生を繰り返すことになる。今この生で目覚めた者はもはや三次元に生まれることはなく、波動の上がった地球に生き残って大地を引き継ぐか、または一旦肉体を脱いで(死んで)波動の上がった地球に生まれてくることになる。</p>

<p>新しい地球では歓喜を土台に生が営まれることになる。歓喜は人々の生きるエネルギーの源となり、日々の歩みの支えとなり、他の人との関わりの中で潤滑油となり、創作や創造に充実感を与えるものとなる。それは今のこの三次元では想像すらできない、美と輝きと感動を伴ったものだ。宇宙の本質が歓喜であるために、高い波動の世界の歓喜は、これまでのように心の奥底に横たわることなく、心の面(おもて)に出て光を放ち、自らと周りの者たちを照らし出す。波動の高い世界では心と心がそのまま通じ合うため、言葉や態度による誤解や曲解はもはやなく、思いの僅かな部分しか伝わらないもどかしさもなく、思いの微細な部分まで全的に伝わり、互いに響き合って歓喜へと結晶する。もはやその世界では苦しみのために額が翳(かげ)ることはなく、瞳が涙で濡れることもなく、奥歯が耐えがたい思いのゆえにきしむこともない。歓喜の偉大な力がこれら全てを払拭するからだ。</p>

<p>このように近々やって来るだろう新しい世界は今のこの世界からは想像を超えたものだが、しかしそのような世界が来ることはいくつもの古文書や伝説に語られている。ホピの神話においては、第四の世界すなわち今の世界が始まった時、大神の甥であるソツクナングはこの世界を『ツワカキ』と名付けた。それは『完全な世界』という意味だ。世の中が信じられない惨状を呈しているのにどうして、と思うかもしれないが、太霊ソツクナングは『なぜそう名付けたかはいずれ分かるだろう』と述べている。これはおそらく歓喜に満ちた新しい世界の到来を予言したものだと思われる。</p>

<p>聖書の黙示録の最後には、ほとんど全ての人間が死んだ後、天から新しいエルサレムが降りて来る様子が記されている。</p>

<p>『私はまた新しい天と新しい地を見た。先の天と地は消え去り、海もなくなってしまった。また聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。』</p>

<p>これも新しい世界の到来を象徴的に語ったものだと思われる。また聖書では新世界の様子を次のようにも言い表している。</p>

<p>『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙をぬぐいとって下さる。もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』</p>

<p>また『ひふみ神示』には次のように記されている。</p>

<p>『岩戸開けたり野も山も、草のかき葉(＝一片の葉)もこと(言)やめて、大御光(おおみひかり)により(寄り)集う、楽しき御代とあけにけり、都も鄙(ひな＝田舎)もおしなべ(＝ことごとく)て、枯れし草木に花咲きぬ、......』</p>

<p>また『ひふみ神示』には次元上昇を思わせる記述もある。</p>

<p>『八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変わるのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。』</p>

<p>四方が平面とすれば八方が立体、とすると十方は三次元より少し上がった状態、すなわち3.5次元のような世界になると解釈できる。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/fufen08.jpg" alt="宇宙の本質" class="img_right" />さてこうした予言的な言葉はみな新しい世界への大変化を示唆している。おそらくそれに間違いないだろう。したがって残された問題はその時期だけとなる。一体それはいつ来るのか。ホピの予言がなされたのは第四のこの世界が始まった時だから、一万年以上、あるいは十万年以上前に遡るかも知れない。聖書の黙示録が書かれたのはおよそ二千年前、ひふみ神示はおよそ六十年前に書かれている。その時以来その言葉を授かった人々は後世へ伝え、後世の人たちは大変化が来るのが今か今かと待ち望んできたに違いない。しかしその時は何十年どころか、何千年、何万年経ってもやって来なかった。それは事実だ。ではこの時代にとってもそれは遠い未来の話で、大変化など我々が生きている間に起こらないのだろうか。</p>

<p>実はこれらの予言的な言葉は、みな『その時』の前に徴(しるし)があることを述べている。すなわち終わりの時の前にはどのようなことが起こるかを述べている。それを目印に今の時代か、そうではないかの判断ができるようになっている。もし人類が全員愚か者ならば、誰も終わりの時に備えることは出来ず、一人として新しい世界に生き残る者はいないかも知れない。しかしもし僅かでも、正しく今の時代だと判断できる者がいたならば、その人たちは新しい世界を引き継ぐことになるだろう。</p>

<p>これまで長い間、多くの人が人類は地上でもっとも賢い生き物だと思って来たのだから、それならばこの終わりの時も正しく読むことができるはずだ。しかし現状を見れば、これだけ終わりの兆候が数知れず現れているにもかかわらず、それを感じている人は多いとは言えない。この差し迫った時でさえ、今迄の生活にしがみ付き、気持ちの備えもせず、洗脳されていることにも気付かず、目先のことにかまけ、無感覚あるいは鈍感さを剥き出しにして生きているからだ。</p>

<p>超越存在は生きとし生けるものを差別はしないが区別する。それは我々と周りの生き物を見れば明らかだ。すべての生き物には違いがあり、それぞれの違いによって役割を分担している。このことは人間界にも当て嵌まる。それはいかなる者も他と違う特質を持ち、それぞれが固有の存在であり、どこを取っても他と全く同じではないからだ。これは一種の奇跡と言える。誰か同じ量の粘土で、1億の違う人形を作れるだろうか。しかし地上には70億の人間がいる。その70億人がそれぞれ内面的にも肉体的にも違うとすれば、それは我々の前にある最も分かりやすい奇跡と言えるだろう。したがってこれから先、互いに区別され、残る者と残らざる者に分けられるのは止むを得ないと言わざるを得ない。それもまた、それぞれの魂の道だからだ。</p>

<p>時はその歩みを加速度的に速めつつある。長大な周期の終点に向けて、時は今ようやく完結しようとしている。私たちはこの地上で繰り返してきた転生をいよいよ終えることになる。しかしそれが我々の落第であって再び他の惑星で転生を繰り返さねばならないことになるのか、それともめでたく卒業して新しい世界へ羽ばたくことになるのか、その答は誰にも与えられていない。しかしたとえ答えは分からなくても、我々はその時が来るまで、自分にできることを精一杯する以外にない。</p>

<p>ただ気の遠くなるような時の中で学び続け記憶し続けたものは、落第生は再び転生を繰り返した後に、卒業生は来たるべき新しい世界で、それぞれの『びっくり箱』を開いて自らのために役立てるだろう。</p>

<p>―終わり―</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">普遍的事実</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 08 Mar 2012 19:12:53 +0900</pubDate>
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            <title>生命の智恵の源泉</title>
            <description><![CDATA[<p>他の生物と較べても、人類は多くのことを知っているとは言えない。蜘蛛は誰にも教わらずに縦糸と横糸を分けて手順を踏みながら巣を作る。何故作れるのかきちんと説明できる人はいない。ひと頃は何でも本能、本能と言って片付けていたが、本能という言葉で括っても何の説明にもなっていないという反省が起こり、専門家たちの多くはこの言葉を使わなくなった。しかし学校というところでは未だに使っているらしい。また専門家の間でも完全にこの言葉が姿を消したわけではなく、動物行動学や心理学などの分野では「本能行動」や「本能的なもの」という表現で今も使われている。</p>

<p>蜘蛛について話を戻すと、多くの人は蜘蛛の巣を一種の平面図形だと思っているかも知れない。しかし最初の梁(はり)や棟木(むなぎ)に当たる上側と下側の糸を張る時には、例えば立木と立木、立木と壁、壁と塀、あるいは軒(のき)と壁など、立体的な視点をもってイメージしなければ適切な場所に思い通りの巣は作れない。(おそらく)イメージした後に、自分の位置から糸を風に乗せて流し、対象となるものにくっつけて基本構造を作るのだろうと思われる。棟糸が固定されるとそれを伝って、行ったり来たりしながら強化する。そして巣の外枠となる『枠糸』と呼ばれるものを張り、くっつかない糸で巣の中心点を通る縦糸を張る。次に同じくくっつかない糸で大まかに横糸を、中心から外側に向けて螺旋状に張っていく。これはいわゆる網として使うのではなく、次の工程の足場となるものだ。したがって間隔も広い。そして今度は外側から内側に向けて、くっつく横糸を縦糸にひっかけながら完成させていくが、この時先程の足場として使っていたくっつかない横糸は、邪魔になるので取り除きながら、くっつく横糸をもっと狭い間隔で張っていく。中心まで行くとこれで完成だ。ちなみに取り除いた足場としてのくっつかない糸は、食べて再生利用しているという説がある。</p>

<p>大雑把に言うとこのような工程で蜘蛛は巣網を作るが、実際にはもっと細かな工程がある。とりあえず今の説明を聞いた段階で、我々は蜘蛛の巣を作れるだろうか。あるいは今我々が蜘蛛になったとしたら、この説明で蜘蛛の巣を作れるだろうか。おそらく何度も試行錯誤を繰り返さなければ、まともなものは作れないだろう。しかし蜘蛛は親からも、誰からも教わらずにこの巣網を完璧に仕上げる。はたしてこれを本能やDNAで説明できるだろうか。まやかしやこじつけの説明を嫌うなら、人間的感覚を超えた別の事柄を想定しなければ説明はできないだろう。</p>

<p>では蟻が地中に立体構造を持つ巣を作ることができるのは何故だろう。蟻は育児の部屋や食料庫としての部屋や女王蟻のお産のための部屋などを分けて作る。ハキリアリの場合は切り取った木の葉を運び入れ、それに菌を植え付けて茸の栽培をする。そのための専用の部屋を作る。ちなみにハキリアリが葉を拾集する際、木の上へ登って葉を切り落とすグループと、下で待ち受けて拾うグループに分かれて作業をする。この時、下で待ち受けるアリは必ず葉の落ちてくる場所にいるという。現代科学では高度な数学と物理学を用いても、ビルの上から落とした一枚の紙がどこに着地するか予想できないでいる。ハキリアリはどうやって葉が落ちてくる場所を前もって知ることができるのだろう。</p>

<p>これも本能やDNAだけで説明できるだろうか。現在DNAの機能が解っているのはほんの一部の遺伝子配列に過ぎず、それによっていくつかの蛋白質が造り出されることが分かっている程度だ。これは単に物質製造に関することであって、DNAが生物の思考や行動にどう関与しているかなどは全く解っていない。</p>

<p>生物学者のルパート・シェルドレイクによれば、シロアリは目が見えないにもかかわらず、二つのグループに分かれて二地点からそれぞれ唾液に混ぜた土を塔のように盛り上げ、少しずつ傾斜させてゆき、最後に頂上の一点で双方の曲がった塔を繋ぎ合わせてアーチを完成させるという。これについてはどう説明すればいいのだろう。これは明らかに思考や行動に関わることだ。シェルドレイクは様々な実験を行なって、目の見えないシロアリが、別の何らかの音や臭いによって合図を送っているのでもないことを証明した。</p>

<p>草食動物は決して毒草や毒キノコを食べないと言われている。親に教えられた可能性もあるが、全ての毒草を親離れする前に教えてもらったとは思えない。これについては別のまやかしの説明がある。それは毒草を食べた草食動物は死んで淘汰され、毒草を食べないものだけが生き残ったために食べないのだ、という説明だ。これは知ったかぶりの学者が進化論を姑息に利用して述べた屁理屈に過ぎない。すなわち元々間違いだらけの進化論をさらに誤用した詭弁に過ぎず、実際のところ何も説明していない。</p>

<p>アサガオの蔓は右ねじの螺旋を描いて絡まっていく。これをある人はDNAにそう書かれているからだと言ったが、こうした物言いは、以前動物について何でもかんでも本能と言っていた時と変わりなく、単に本能をDNAに置き換えたに過ぎない。</p>

<p>桜とポプラの枝ぶりはまるで違うが、芽が出た後どうして桜は枝をゆったりと斜め上へ伸ばしてゆこうと決めることができるのか。またポプラはどうして鋭く上へ伸ばしてゆこうと決めることができるのか。木はそれぞれ独自の枝分かれの角度を持っている。またどこまで伸びて枝分かれするかもそれぞれ違う法則を持っている。木は分度器や物差しで自分を計っているわけでもないのに間違うことはない。すなわち桜の枝が途中からポプラの枝のようになったりはしない。何故なのか。</p>

<p>花はそれぞれ固有の色を持ち、決まった数の花弁を持ち、決まった形の雄蕊と雌蕊を持っている。同種どうしで色が混ざったりはすることはあるが、花弁の数や全体の花の形が別の花のようになったりはしない。ホッキョクグマの子供の体毛がブチになったり黒くなったりして生まれてくることもない。オオアリクイに羽が生えることはないし、ハゲワシの羽が倍の大きさになることもない。犬から猫の子が生まれることもないし、人間がキツネを生むこともない。一体何故なのか。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/fufen06.jpg" alt="生命の智恵の源泉" class="img_right" /><br />
我々は子供の頃から安っぽい科学を刷り込まれ、そんなことにならないのは当たり前だと思わされてきた。そのため自然を見た時の純粋な疑問も感動も奪われてしまう結果になっている。古代の人々はこれらに関する純粋な疑問を持ち、自然のなせる技に感動した。それは古文書からも窺い知ることができる。我々は嘘八百の学校教育と誤りに満ちた科学に洗脳されてきたため、こうした身近なものに対する疑問も抱けず、感動もできなくなってしまった。現代人は古代の人々をみくびる傾向があるが、果たしてどちらが賢くて、どちらが愚かなのだろう。</p>

<p>生きとし生けるものはそれぞれ固有の特徴を備え、それぞれ不思議な能力を備えている。それらは一体何によってもたらされ、どのように発現しているのだろう。ルネッサンス以来のおかしげな西洋哲学のせいで、それらは自然のなせる業だとか自然の法則だとか、まるで説明になっていないにもかかわらず、そうした表現が立派な説明としてまかり通ってきた。問題はその自然や自然の法則が何者の意思によってどう造られ、どう機能してきたかだ。最初に自然があって全てを操ってきたわけではない。こうした物言いは彼ら哲学者が、それまで西洋人が崇拝してきた全能の神エホバを、単に自然という言葉に置き換えたに過ぎない。</p>

<p>引力、表面張力、毛細管現象、光合成など、どれも科学が発見したと言われているが、だからといって何故そうした現象があるのかは全く説明されていない。そもそも引力は何なのか、何故どうやって発生するのか説明できていないし、引力を発生させる粒子として想定されたグラビトンも未だ発見されていない。表面張力や毛細管現象は素人でも見れば分かることだが、科学は単に名前を付けただけで、この現象がなぜ起こるのかは説明できていない。光合成も240年ものあいだ研究が続けられてきて複雑な反応過程は少しずつ分かってきたが、光と水と二酸化炭素で何故有機物が造れるようになっているのか、その根本の疑問には答えていない。</p>

<p>このように科学は自然の奥深い真実には到達できず、表面に現れた現象に名前を付けて追認しているだけだ。にもかかわらず、これらは大きな発見であり科学の成果だと言い張っているようだ。確かに応用科学(化学)によって我々の生活は便利になったが、それらも全て根本の理由は解らず、単に現れてくる現象を利用して何かを作っているだけだ。電気、磁気、電波なども大いに利用されているが、そもそも何故どうしてそれらが生まれ、何故この宇宙に存在しているのかは解っていない。</p>

<p>このように本質や真実は見抜けず、何の説明もできない科学だが、それが権威を持ってしまったために、人類は科学を崇拝して誤った物質文明を築くことになった。ルネッサンス以来、科学は愚かにもこの宇宙の謎を半ば解いているかのような、いずれ全てを解けるかのような傲慢な態度で自然に挑んでいる。</p>

<p>愚かな人間ほど他人を見くびったり馬鹿にしたりするが、科学も自然や宇宙を見くびり、高を括っている。ネイテｲブ・アメリカンや、ニューギニアやアフリカの原住民、日本のアイヌなど、地上の僅かな人々が自然に対する畏敬の念を忘れず、侵すべからざる宇宙と自然の聖域を知っている。彼らなら蜘蛛がなぜ親に教わらずに巣を張れるのかに答えられるだろう。蟻がなぜ種類に分けて部屋を作るのかも、草食動物がなぜ毒草を食べないのかも、木々がなぜそれぞれ違う角度と太さで枝を伸ばすのかも、ヒマワリの種が成長すれば必ず同じ形のヒマワリの花を咲かせる理由も、彼らなら答えてくれるだろう。何故なら彼らは自然の前で驕ったりせずにどこまでも謙虚なため、宇宙の智恵が宿るからだ。そう、彼らと同じように、蜘蛛も蟻も草食動物も木々も花々も、皆自然の前で謙虚であるがために宇宙の智恵を授かるのだ。</p>

<p>これら生きとし生けるものは、人間のように学ぶことも教わることもない。宇宙の聖域を知り、それを侵さず、それに畏敬の念を抱くものは自らが聖域となるからだ。そうすれば何をどうすべきかは、宇宙全体を一つに結びつけている智恵の絆によって知らされる。人は他の生き物と違って大いなる自意識がある。しかしそれがために周りにある物質に意識を奪われやすく、よほど謙虚にならない限り現象の背後にある聖なるものは感じ取れない。もし芯から謙虚になり、目先のものに囚われなくなれば、理屈など必要のない聖域に入っていく。人は聖域にいる自分に気付いた時、神秘な体験をするだろう。すなわちその時、自然は広大な聖地であり、宇宙は巨大な聖堂であると感得するのだ。</p>

<p>人は自分自身や論理や自尊心や肩書やお金や容姿など様々な物にこだわり、囚われて来た。そのため盲(めしい)のように本質も崇高さも聖域も見えなくなり、聾(みみしい)のように自然の声も地球の声も宇宙の声も聞こえなくなってしまった。もしこれら無用で価値のない一切の物に対するこだわりを捨て、自然や宇宙に対して何も求めず、何も知ろうとせず、何も頼まずに謙虚になれば、物も智恵も望みも全てがすでに自分に備わっていることに気付くだろう。</p>

<p>人は自然の中にいて自然と分離したものでなく、自然と共に自然の懐にいて宇宙全体と繋がっている。すなわち創造の大神の本質を持つ生き物であり、したがって目先の欲を捨て、宇宙に心を開いて謙虚になりさえすれば、蜘蛛や蟻や木々や花々よりも高い創造の技を得て美しいものを作り出し、自らも美しくなり得る。新約聖書には次のような一節がある。</p>

<p>『野の花は働きもせず紡ぎもしない、なのにあんなに美しく咲き誇っている。栄華を極めたソロモンでさえ、その花の一輪ほどにも着飾ってはいなかった』</p>

<p>聖域に踏み込めばそこに歓喜の王道を見出すだろう。何故なら生命の智恵の源泉は宇宙そのものであり、自然はその智恵の現れであるからだ。自然に寄り添い自然の懐で生きる全ての生き物たちは、各々がその自然から必要な智恵を得ている。そして人間は自由意思があるために、本来様々な生き物の持つ智恵の一切を手にすることができる。人間は多様な創造的活動の中で、必要なら適宜にあらゆる智恵を手にできる。それが自由意思を持ち、幅広い活動ができる我々に与えられた能力なのだ。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">普遍的事実</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 08 Mar 2012 19:09:29 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>因果応報の彼方.2</title>
            <description><![CDATA[<p>この辺りは微妙で誤解を招きやすいのでもう一度説明する。</p>

<p>我々は目の前の事柄について目的や意味を知りたがるが、一つの場面を区切って捉えても決して答は得られない。それどころか何百万年あるいは何億年という間、様々な生き物に生まれ変わり死に変わり、無数の生を経験している途上では、その生の意味や目的が示されることは決してない。気が遠くなる年月の間、輪廻転生を繰り返しながら、様々なことをただただ経験し、その時の感情や思いを魂に刻み込んでいるだけだ。そこには善悪もなければ正邪もない。</p>

<p>たとえその魂(＝本質)が無数の生を経験し、多くの情報を心の奥に刻んできたとしても、一旦人として生まれた時にはその一回の生の範囲で目的や意味を考えざるを得なくなるので、答に辿りつくのはほぼ不可能となる。また現在の生まれ育った環境や自分の容姿や能力を、単に運命的なものとして受け止めるなら、遠大な時間スケールの中でのその意味するところは見えてこない。現在の生しか視野に入っていないので、現在の生だけ切り取る形で考えても、計り知れない寿命を持つ魂の目的など分かるはずはない。</p>

<p>人間は死を大袈裟に考え、死という事柄だけを切り取ってその意味を考えようとするが、そうしたやり方では死の意味するところも見えてこない。無数の生を経験してきた魂にとっては、死は新しい着物を着るために、単に古くなった着物を脱ぐ程度のことでしかない。問題は死ぬことや生まれることではなく、経験することだからだ。我々がこの世に生まれてくるのは、波動の荒いこの物質次元でしかできないことを、魂＝本質が数限りなく経験するために来ているだけなのだ。</p>

<p>もし我々が生きることの意味や目的について問おうとするなら、この一回の人生に関してのみ問うのではなく、無数の生を経験した長大な時間を俯瞰して、その全体から問うのでなければならない。何故なら魂自身に死はなく、(何億年前かは分からないが)誕生して以来一度も消滅することなく現在に至っているからだ。</p>

<p>魂はおそらく何万回、何十万回と生を経験しているので、これまでの記憶の量は膨大なものとなっているだろう。しかしその全記憶が意識に上ることは、この世においても死んだ後の世界においてもまずない。もしこの世やあの世で記憶のすべてが甦ったとすれば、意識は混乱を来すだけだろうからだ。また万一この経験の記憶を適宜引き出して生かせるようになったとしたら、それは逆に学びのためにこの世にやってきた意味を失わせることにもなるだろう。すなわち輪廻転生を繰り返している間は、それは必要がないので引き出すことはできないのだ。では記憶した膨大な情報は一体いつ役に立つのだろう。それは時が煮詰まり、いよいよ全てが変わり、大いなる転換が起こった後に初めて役立つようになっている。</p>

<p>それまでは(人間以外の生き物も含め)縁のある者たちと生まれ変わり死に変わりながら、いくつもの生の中で関係し、互いの関係を発展させることによって自らの発展に繋げる努力が促されている。縁によって夫婦となり親子となり友人となったりしながら、互いの関係の中で学び合い、許し合い、かつての生でのしこりを修復し、または憎しみや怒りによってさらにしこりを増幅させ、時には思いやりや歓びの関係を実現し、時には冷淡な関係に陥りながら、長大な時間の中でひたすら経験を積み重ねている。</p>

<p>ところで先程から『本質』という言葉を使っているが、これは足立育郎氏が『波動の法則』の中で述べている本質＝魂と同じものだ。この本質=魂は岩や雲や微細な生物、大型動物から人間まで、様々な生を経験し続ける。</p>

<p>足立氏によれば、人間の場合この本質＝魂は頭の位置と重なって、おそらく松果体を中心に直径20㎝位の大きさで球体として存在しているという。ただし陽子と中性子だけで出来ているので、我々の目には見えないという(これらが電子と結びつくと実体化して目に見えるようになる、と足立氏は言っている)。とはいえ過去の宗教画などには、洋の東西を問わず光輪が頭に描かれているものがあるので、この存在を知っていたか、見ることができた人がいたことを窺わせる。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/fufen05.jpg" alt="因果応報の彼方.2" class="img_right" />この本質＝魂は無限ともいえる天文学的な記憶容量を持っていて、過去の生の体験、感覚、感情などのことごとくを記憶している。本質＝魂を構成する素粒子のうち、中性子は意識そのものであり、陽子は意志そのものだと足立氏は述べている。これはとても穿った説明だと思う。現代の脳科学や意識を取り扱う学問分野では、今もなお人間の意識は脳のどこにあるのかといった、とんちんかんな方向で研究されている。しかし脳をどんなにくまなく調べても、意識の所在など分かるはずはない。何故なら意識は見えるものではないし、物質に依拠しているものでもないからだ。</p>

<p>私は意識は普段脳と重なって存在しているが、そこが必ずしも指定席というわけではなく、三次元空間に囚われないので、どこへでも移動は可能なのだと思う。それが世間で言う幽体離脱であり、また認知症の人の特有の症状にみられるものだと思う。認知症の人が家族に、家にいながら『家に帰る』と意思表示することがある。家族は意味が分からず、単に頭がおかしいのだからしょうがないと受け流しているかも知れないが、実際はその人の意識は別のところにあるため、本当に家に帰ろうとしているのだと解釈できる。</p>

<p>原子は原子核とその周りを回る電子から成っていて、さらに原子核は陽子と中性子からなっている。だとすれば中性子が意識であるならば、すべての原子は意識を持っていることになる。ただしこの場合は電子がまわりをまわっている。つまり電子と結びついているので物質化し、可視化されている。しかし本質＝魂を構成する中性子や陽子は電子と結びついていないので、三次元空間に拘束されることなく、したがって目に見えることもない。すなわち中性子と陽子はそれぞれ意識と意志として働き、この三次元のどこにでも存在でき、他の次元にも存在できる性質を持っていると思われる。</p>

<p>遠い昔に生まれたこの本質＝魂は数えきれないほどこの世の生き物に宿り、様々な経験をして、それら全てを自らの記憶装置に溜めてきた。時には山になり石になり、時には木になり野の花になり、時には細菌になりウィルスになり、時には鼠になり狼になり、そして時には人間の女になり男になりと、様々な生の中で限りない経験を積み上げてきた。その段階によって、例えば鉱物と植物と動物では記憶容量が格段に違うが、いずれにせよ経験して記録することに変わりなく、ひたすら記憶を積み上げて来た。しかしついに時が満ち、数限りない転生に終止符が打たれる時が来る。劇で言えば無数の幕が、小説で言えば無数の章が、映画で言えば無数ドラマを内包するオムニバスが、ついに終わりを告げる時が来る。そしてそのときに初めて、何億年の魂の旅路がどこに向かっていたかが明らかにされる。</p>

<p>『ひふみ神示』にはこの世が大峠を迎える時「びっくり箱が開く」と書かれている。それは何億年もかけて蓄積された無数の生と数限りない経験の詰まった箱が、いよいよその蓋を開けて中身を明らかにすることを意味していると思われる。もうすでに地球は『終わりの時』に入っていて、浄化が次々と起こっている。終わりの時がどのくらい続くかは分らないが、聖書には『その時が短くなるよう祈りなさい、そうでなければ生き残る者は誰もいないであろう』と記されている。</p>

<p>『終わりの時』にも初めがあり、終わりがある。そして今後、その終わりの時の終わりに向かって、さらに未曽有の艱難を迎えることになるだろう。そうしてついに浄化が終わった時、何が起こるのだろう。もし生き残った人間がいるとすれば、その人たちは信じがたい変化を目の当たりにするだろう。それは地球と地球上の生きものの波動が上がり、一切のものが光を放ち始める姿だ。その時、重たい物質世界は軽くなり、監獄のような境界を持った空間は解き放たれ、時間は直線的であることを止めて前後左右へ広がりを持つようになる。その新しい世界では邪心のない者たちが想念によって時空を自由に行き来し、想念によって物を現出させ、言葉によらないで意思を伝え合うようになる。</p>

<p>そしてその時に初めて、びっくり箱が開いて全ての前世の記憶が甦る。ようやく蓄積してきた経験の全てが心に思い起こされる。そして生きとし生けるものに無数の経験が何故必要だったのかも明らかにされる。それは生き残った人たちが再び波動の荒い世界へ落ち込まないための智恵として働くためであり、また波動の高い世界で、数千年になるだろう長寿を生きて行くために、その膨大な記憶は無尽蔵の宝となって生活を支え、彩るようになる。</p>

<p>それまで経験した悲喜劇は、新しい世界では別の意味合いを持つようになる。かつて無数の生で味わった歓びや悲しみ、親愛や孤独、許容や拒絶、傷心や怒り、感激や憂鬱などは、精神的および感情的なバランスをとるための重要な下地となるだけでなく、想念による創造ができる段階に入った人々が、世界支配のためや自分の欲望のためにその能力を使わない智恵として作用することになる。</p>

<p>すなわち、全ての過去世を思い出したなら、他人の支配や国の支配や世界の支配への欲望が、最終的にどのような結果をもたらすかが容易に理解されるので、もはやそうした野望を持つことはなくなる。また自分の立場を笠に着て他人に暴言を吐いたり、自分の傲慢さゆえに他人を罵ったり、自分の自尊心ゆえに他人を誹謗したりすることが、最終的にどのような結果をもたらすかも容易に理解でき、またその時の言われた立場の人間の気持ちも同時に理解ができるので、双方の想いが手に取るように解り、したがって再びそうした愚行はしなくなる。</p>

<p>今のこの世界にいる我々でも、そうしたことがよくない結果を招くだろうことは予測がつく。しかしこの三次元ではその場になると欲に惑わされたり、教訓としての知恵を忘れたりなどして、自己規制が利かなくなる場合がある。しかし新しい世界ではもはや忘れたり欲にまみれたりしなくなるので、有効に自己規制が利き、誤った言動は取らなくて済むようになる。またすべてを思い出しても、限界という壁がもはやないので、パニックに陥ることもなく、適宜必要な情報を引き出すことができるようになる。</p>

<p>もし新しい世界で蝶が飛んできたとしたら、その蝶を捕まえようとは思わないだろう。何故なら新しい世界では自分がかつて蝶を経験し、その時に人間に捕まえられたことを思い出すことができるので、捕まえられる蝶の気持ちが解るからだ。また野の草叢(くさむら)で鳴く虫の声を聞いても捉えようとは思わないだろう。何故ならかつて人間に捕まえられて籠の中で死んだことを思い出すことができるからだ。</p>

<p>新しい世界になれば食べる必要はなくなるが、べつに食べてもかまわない。波動が上がった身体の細胞は宇宙空間に遍在するエネルギーを取り込むようになるので食べる必要はなくなるが、しかし少し前まで、すなわち波動が上がる前まで食事を取っていた習慣はすぐには抜けないため、食べようとする気持ちは起こるので、しばらくの間は料理をし、食事を楽しむことだろう。しかしもはや肉類は食べることはないだろう。何故なら自分が牛に生まれて屠殺場で殺された時の経験を思い出すからだ。豚も鶏も、自分がかつて人間の食べ物として殺された経験が思い出されるのでもはや食べたりしないだろう。それよりも穀類や野菜や果物で、時間を十分かけて次々と美味しい料理を作り出していくことだろう。植物は食べられて動物の一部となることを喜びとする生き物なので、動物のように食べられた他の生き物に暗い波動を投げかけることはない。</p>

<p>波動の上がった世界ではかつて腕のいい日本料理の調理師だった時のことや、フランス料理のシェフだった時のことを思い出すので、次々と素晴らしい料理を作り出して、食を楽しむことだろう。</p>

<p>もし新しい家を建てたいと思うなら、大工をしていた時の経験、設計士をしていた時の経験、配管工やインテリア・デザイナーをしていた時の経験が思い出され、それら全てを生かせるようになるだろう。また音楽を聴いたり自分で演奏したいと思うなら、バイオリンやチェロやギターやピアノなどの演奏家だった時の経験が思い出され、それらすべてを生かせるようになるだろう。</p>

<p>三次元で経験したありとあらゆる事柄が、波動の上がった新しい世界では貴重な財産となり、教訓となり、智恵となり、示唆となって、歓びに満ちた生活を支え続けるだろう。再び道を踏み外し、欲にまみれることのないよう、全ての経験が正しい道を示し続け、歓喜と充実感溢れる生活を支え続けるだろう。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">普遍的事実</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 08 Mar 2012 19:04:17 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>因果応報の彼方.1</title>
            <description><![CDATA[<p>個々人の不幸や悩みに焦点を合わせ、身近な問題にこだわっているだけでは見えて来ない宇宙全体の真実がある。それを見るには巨視的な、全体を俯瞰(ふかん)する視点を持ち、宇宙的規模の時間の流れを把握して、その意味するところを読み取らなければならない。</p>

<p>誰しも一度は、生きとし生けるものが限りない時の中で何度も生死を繰り返している理由を問うた事があるだろう。しかし実は意味や目的があることを前提としてはその答は得られない。何故なら生きとし生けるものは、ある時の終わりまではただひたすら様々なことを経験しているだけだからだ。全ての生き物の本質(＝魂)は岩や雲や(これらにも本質＝魂がある)、植物や動物を経験して、そこで得た体験としての情報を、ひたすら魂に貯めていく。したがってその途上にあっては目的も意味も理由もなく、単に全てを経験しようとしているだけだ。</p>

<p>変な言い方に聞こえるかもしれないが、人は石を経験しなければ石の気持ちは解らない。地面を忙しく歩き回る蟻の気持ちも、実際に蟻になってみなければ解らない。人間的な推量で自分の感覚を当て嵌めてみても、正しいかどうかは分からない。鰐がヌーを襲って食べるのを見て、弱肉強食などと見当はずれの概念で括っているが、これは自分たちの感覚や判断が正しいという前提に立った括り方で、それは人間が最も優れた生き物であり、最も正しい判断をするという根拠のない傲慢さをその前提にしているからだ。この傾向は学問と呼ばれるもの全般に見られる。人間を中心に物事を考えるこの尊大な態度は、近代以降、そして今なお顕著になりつつある。</p>

<p>実際はその鰐になってみなければ、またそのヌーになってみなければ、彼らの行動の動機や感覚は解らない。そこには我々人間の想像も及ばない世界があるはずだ。全く異なる生態を持ち、異なる感覚器官を持っている他の生き物の思いなど、推量すること自体が間違っている。深海の底に生きる名前さえないエビの一種が、一生光のない暗黒の中で暮らす気持ちなど、どうやって想像できるだろう。大空を舞う鳶(とび)が風を読み、風に乗るその感覚や気持ちをどうやって想像できるだろう。そもそも他の生き物を理解するなど不可能なのだ。それを知るには実際に他の生き物に生まれてみなければならない。ここに転生の本来の目的と意味がある。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/fufen01.jpg" alt="因果応報の彼方.1" class="img_left" />人間に生まれたとしても、二元論的に物事を捉えるようとする限り、その両方を経験しなければ理解には至らない。例えば金持ちの家に生まれた者は貧しい者の気持ちは解らないし、赤貧の家に生まれた者は金持ちの気持ちは解らない。したがって輪廻転生の中で両者を経験しなければならなくなる。優等生はいつか劣等生を経験し、悪事を取り締まる者はいつか悪事を働く者を経験し、子供を捨てた親はいつか捨てられる子供に生まれることになる。今誰かを騙せばいつか騙される立場になり、今誰かを罵(ののし)ればいつか罵られる立場になる。すなわちこれが仏教でいう因果応報の概念となったのであり、新約聖書では『人は自分が撒いたものを刈り取ることになる』(ガラテヤ人への手紙)という考えに至った。</p>

<p>しかし本当に因果応報といった仏教哲学的な括り方は正しいのだろうか。撒いたものを刈り取らねばならないという聖書的な考え方は本当に的を射ているのだろうか。因果応報はこの人生だけでなく、いくつもの人生の中で原因に対する結果として現れる対立的な状況であり、これによって調和が回復されると解釈される。撒いたものを刈り取るというのは我々の生活の中でもよく起こることであり、自分が作った原因は必ずその結果を引き受けなければならないということだ。しかしそれを本当にカルマ(＝業：ごう)と判断していいのだろうか。</p>

<p>全てが因果応報の法則に支配され、宇宙の片隅の小さな出来事や微細な変化も、どこかの何者かの意思によって調整されバランスが取られるとするなら、それは一方で信じがたいことではあるが、他方では人間に安心感を与える解釈に違いない。</p>

<p>蚊の一匹が、飛んでいる燕の口に入って絶命する。もし宇宙に偶然がないとしたら、この蚊はどういう原因によって燕に食べられるという結果を招いたのか。この蚊を食べた燕があるとき山沿いにある民家のガラスにぶつかり能賑盪をおこして地面に落ちる。それを鳶が見つけて捕まえ、巣に持って帰って子供に与える。この鳶はどういう理由で燕を手に入れるという結果を得たのか。またそれを与えられた子供の鳶はどういう因果によって餌を得、またそれを食べるという行為によってどういう因果を作ったのか。</p>

<p>一匹の蚊、一羽の燕、一羽の鳶とその子供と、たったこれだけでも因果は他の多くのことどもと複雑に絡み合い、我々人間の理解を超えた関係で結ばれていることになる。全宇宙には想像を絶する数の生き物が生死を繰り返し、ドラマを展開しているわけだから、だとすれば因果の法則はそれら全てについて複雑極まりない調整を行ない、しかも微塵の間違いも犯さずに滞りなくバランスを取っていると考えなければならなくなる。果たしてそんなことが可能なのだろうか。</p>

<p>狭い領域に限れば、因果の法則は絶妙のシステムとして機能しているように見える。しかし尋常でない複雑な調整を宇宙的規模で、小さな過ちさえ一つも犯さず行なっているということは信じがたいことだ。これはもはや正しいか正しくないかではなく、信じるか信じないかの問題になってしまう。すなわち因果応報の法則は狭い領域、短い期間の中で考えるなら有効な法則のように思われるが、宇宙的空間規模と宇宙的時間スケールで考えればその有効性は失われると思われる。何故なら我々にとっては数千年、数万年は長大な時間であり、そこでの生まれ変わりも数限りないように思われるが、しかしこれは宇宙的スケールから見れば、輪廻転生のほんの一部を切り取ったに過ぎないからだ。</p>

<p>なぜ全ての事柄に因果応報が働いているように見えるかというと、人は理由や意味を欲するからだ。また自分の視野に入る、あるいは想像可能な空間的時間的スケールの中で解釈しようとするからだ。しかしそうした数十回や数百回の生まれ変わりでは判断できない真実がある。実際は我々の本質(＝魂)は様々な他の生き物にも生まれ、数限りない生の中で、あらゆる経験をしているのであり、それは何十億年、何百億年という時間スケールで考えるなら、単に無数の経験を積み重ねているに過ぎないことになる。</p>

<p>宗教はおそらくこの事実を知っていたのだろう。しかしそれを信者に伝えなかったのは、内容的にそれは『教え』にも『思想』にもならないからであり、また魂が単に様々なことを経験しているだけなら何をしてもいいということになりかねず、道徳という監獄に人々を閉じ込めようとする宗教はその目的を達せられなくなるからだ。したがって真実は、因果応報という一種の哲学的な考えに改変して人々に押しつけたられたのだと思われる（ただしこれはあくまでも因果に関してであり、縁の概念を含むものではない）。</p>]]></description>
            <link>http://mitsuno-y.com/file/201203/08_190044.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">普遍的事実</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 08 Mar 2012 19:00:44 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>新たな世界観－善悪のからくり.2</title>
            <description><![CDATA[<p>さて話を本筋に戻そう。人間は自意識を持ち目覚めたが、解放されて自らの道を歩んだわけではない。人間と人間の奴隷について今述べたように、神々=異星人も自意識を持った人間を一旦突き放したとはいえ、支配するのを諦めたわけではなかった。彼らは新たな作戦を練り、遠い将来、人間を再び自分たちの奴隷にしようと目論んだはずだ。その巧妙な手段の一つが善悪の概念を人間の意識に埋め込むことだった。人間はこれによって自ら二律背反の世界を作り上げていった。先程の聖書の文章をもう一度読んでみよう。</p>

<p>『見よ、人は我々の一人のようになり、<strong>善悪を知るもの</strong>となった』</p>

<p>神々(＝異星人)のように人も善悪を知る者となった、と書かれているのをそのまま信用するなら、この異星人たちは自分で自分の愚かさを暴露していることになる。しかしこれは恐らく人類を洗脳するために後に誰かが書き換えたか、書き加えたものだろう。地球へやって来た異星人や高次元霊が善悪に根拠などないのを知っていたのは当然のはずで、こうした言葉を残すとは思えないからだ。</p>

<p>これは後に地球上で闇の支配者となる者たちが、人間を彼らの小羊に仕立て上げ、『楽園という名の牧場』で飼えるようにするためにあえて書いた、あるいはあえて書かせたものだと思われる。分かりやすく言うと、善悪を絶対的な基準であると思わせることによって、真実を見えなくさせるためにこの一文を入れたのだ。</p>

<p>古代において、特に神話の世界において、善悪の概念は存在しない。様々な地域に親殺し子殺しなど、生々しい出来事を述べた神話はあるが、しかしそれらについて何処にも善いとか悪いとかいった表現は出てこない。したがって善悪は後に何者かが作為的に造り、蔓延させたものだという疑いがある。それは人類を常に混乱と対立の中に置こうとした神々＝異星人たちが意図したものだろう。</p>

<p>それが功を奏し、やがて人類は正義だの聖戦だのと言うようになり、戦いや人殺しが正当化されるようになった。神々＝異星人は、自分たち自身は縛られてはいないその善悪の概念を、人間界に蔓延させることによって人間同士の分裂を図り、憎悪にまみれさせて冷静な目を持てなくし、それによって、人間の注意を自分たちに向けさせないようにした。また人間に善悪に止まらず、様々な二項対立の概念を刷り込むことによってさらなる思考の混乱を招かせ、人類が真実に近づけないよう様々な画策をした。すなわち後の闇の支配者となる神々＝異星人は『人間牧場』実現のために、善悪を知ることが神のような知性を得ることであると偽って、人類を混乱させるためにこの概念を蔓延させたのだと考えられる。</p>

<p>このように我々人類は太古にすでに洗脳され、押しつけられた基準で世界を見てきた。それ以来数万年に亘って、人類は正しい世界像を見ることはなかった。常に二律背反的な分裂した世界を見つめ、一切のものが関係し合う一つの宇宙を思い描くことはなかった。</p>

<p>しかし現代になってある変化が起きた。それは支配や洗脳を目的としない異星人＝高次元霊が、破局が避けられそうにない人類の状況を見て援助の手を差し伸べ始めたのだ。こちらの異星人は自分たちの文化を押し付けたり技術を供与したりするのを避けて、密かに人類を見守ってきた。それは彼らが、地球人が独自に作り上げる文化に学ぼうとしていたからで、いくら稚拙だとはいえ、彼らの思いもしない発想を人類が持つ可能性を排除できなかったからだ。しかし今や人類は自ら破滅しかねない状況を招き、また破滅の仕方によっては太陽系の他の惑星や近隣の星々にまでに影響を及しかねない事態に至ったため、彼らは慎重に行動を起こし始めた。この異星人は人類を支配しようとする先の異星人とは元々は同じ仲間だが、太古に袂を分って別々に行動してきた。彼らは他方の仲間の動向を見据えながら、重要な節目々々に人類に関与してきた。</p>

<p>この異星人は古代においては地球のいくつもの村に日常的に訪れ、人間と親しい付き合いをしてきた。人間の方もそれを当たり前のこととして受け止め、様々な情報を貰っていた。その接触は次第に減ってきたが中世に至ってもなお続き、地域によっては近代まで交流があった。しかし西洋でルネッサンスが始まって以来、自己中心的、物質至上主義的傾向が強まり、さらに西洋中心、地球中心の発想に凝り固まっていったため、彼らは地球人と距離を置くようになった。こうして地球人類は宇宙全体との親和力を失って宇宙の孤児となった。</p>

<p>しかし20世紀に入ると、彼らは『空飛ぶ円板』で再び姿を見せ、色々な媒体を使って再び人類にメッセージを発信するようになった。やがてUFO写真が出回るようになり、じきに異星人と接触したと言う者も現れ、やがて具体的な多くのメッセージが書物として出版されるようになった。</p>

<p>改めてこの流れを見てみると、異星人が自らの存在を徐々に人類に慣れさせてきた経緯が読み取れる。しかしこちらの異星人は支配が目的ではないので、やり方は非常に慎重で手が込んでいた。例えば彼らと接触した人々が出版した本を見ても、ある本では断定的に語られている内容が、他の本では少し違うふうに語られていて、読む人が自分で考えて真実を見極めなければならないように仕組んでいる。もしそれぞれ全然違う星から来た異星人たちや、全然違う次元の高次元霊たちが皆同じことを言ったとしたら、人間たちは深く考えることもなく、単純に信じてしまっただろう。しかし彼らはあくまでも人間に選択の余地を残し、自ら考え判断しなければならないよう配慮した。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/fufen04.jpg" alt="新たな世界観－善悪のからくり.2" class="img_left" />この人類援助のために活動している異星人は一体我々に何を期待しているのだろう。それは洗脳からの目覚めだ。人類は長い歴史の中で数多くの誤った概念を持たされ、それによって誤った判断を強いられてきた。すなわち善悪の基準で物事を考えるよう仕組まれ、人間には神々＝異星人のような能力は備わっていないと信じ込まされ、宇宙に知的生命が生まれるのは非常に稀で、近隣の星では地球にしか生命は存在しないと思わされ、法律、常識、慣習、信仰、政治など、これらのものは元々あったもので、それなりに根拠があると信じ込まされ、学校の教科書や医者、教授、コメンテーター、坊主、神父などの言うことが正しいものであると思わされてきた。</p>

<p>これらの偽物、嘘、まやかし、出鱈目から人類を目覚めさせるために、異星人＝高次元霊は何世紀も前から一大プロジェクトを立ち上げ、段階を踏んで計画を実行してきた。すべての洗脳から一気に目覚めさせるのは、多くの現状維持型の人間にはショックが大き過ぎ、また全地球的混乱を招く虞(おそれ)があったので、彼らはまず先駆者を選ぶことから始めた。彼らは何世代も前から先駆者となる者が生まれる血筋を決め、生まれる前の段階から、先駆者となる者と霊的次元で一緒に計画を練り、合意していた。ただしそうした先駆者も、この世に生まれてくる時には記憶を消されて来るので、大変な精神的社会的苦痛を受けた結果、合意してきた計画を実行できない者も多く出た。</p>

<p>初めの何人かは嘲笑、罵倒、誹謗、中傷などに晒され、挫折する者もいたが、中には挫けずにメッセージを発信し続けた人もいて、その結果世の中に彼らの言うことを真剣に受け止める人々が現れた。そうした人たちの中には、何も解らず先駆者を崇拝してしまう人もいたが、多くは無意識に何か世の中が変だと感じて真剣に先駆者の発言を聞く人たちだった。</p>

<p>このように異星人＝高次元霊は人間を強制的に目覚めさせることができるにも拘らず、決してそうはせず、徐々に人間自らの目覚めを促してきた。その理由の一つは人間の自主性、主体性を尊重しているからであり、もう一つはもし彼らが人間自らが考え気付く機会を奪ってしまったら、それが自分たちのカルマとなり、償わなければならなくなるからだ。</p>

<p>彼らは様々なヒントを人間に与えているが、それでも頑(かたく)なに現在の価値基準を信じ、それを守り続けようとする人間は彼らにしても手に負えない者であり、やがて時が煮詰まればそれなりに振り分けられるのも止むを得ないと見ているようだ。すなわちお金や宗教や身分などに執着する者は肉体を脱いだ(死んだ)後も、そうした世界に引き込まれ、自分と似た者たちと、この世でやってきたことを繰り返すことになる。またそうでない場合は、今の地球に似た星に再び生まれてやり直すことになる。いずれにしても彼らは波動の上がった地球には住むことはできなくなるだろう。</p>

<p>今特別な知識がなくても、あるいは天からのメッセージが貰えなくても、物やお金や常識や宗教や社会的な地位、名声といったものへの執着から離れ、人を羨んだり憎んだり怒ったりせずに他人のために役立とうと生きていれば、必然的に新しい世界に入って行けるだろうと思う。それは悪いことをしなかったからとか、いいことをしたからとか、そういう意味ではない。そうした生き方ができるのは魂が浄化されていることを示しているからだ。</p>

<p>魂の浄化は口先だけで美しいことを言っても実現されない。単に純粋で穢れがないのは無知に等しく、心の深みや表裏・陰陽の立体性を持たない浅薄(せんぱく)なものでしかない。有意(ゆうい)で価値を持つのは社会の汚泥にまみれても純粋さを失わず、穢れてしまわないことだ。すなわち、どんな理不尽な経験をしてもそれに押しつぶされたり、心が曲がったり、人を信じなくなったりせずに、清い精神を維持していることだ。</p>

<p>その精神が、実は目覚めの基となる。この目覚めとは何度も言ってきた、古代からなされてきた洗脳からの目覚めだ。特別の知識や、霊界や異星人からのメッセージなどなくても（ない方がいい場合が多いが）、目覚めることによって世の中の嘘や間違いやからくりが見えてくる。そしてその洗脳から解放されれば、その度合いに応じて本来あるべき世界の姿が見えてくる。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">普遍的事実</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 08 Mar 2012 18:57:04 +0900</pubDate>
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            <title>新たな世界観－善悪のからくり.1</title>
            <description><![CDATA[<p>人類が神や異星人や高次元霊と呼んでいるものは、すべて様々な惑星に生まれた、進化した知的生命体に過ぎない。これらの者たちは宇宙を造ったわけでもなければ、宇宙をコントロールしているわけでもない。聖書のエホバは『自分たちに似せて人を造った』と言っているが、宇宙を顕現させている超越存在に、人間的な概念としての形などあるはずがない。この点だけをとっても聖書の神は単なる高次元霊か、さもなければ異星人でしかないのが分かる。たとえこの言葉を内面性を似せて造ったという意味に解釈したとしても、超越存在は森羅万象を顕現させる力を持っているわけだから、我々人間とは比較の対象にならない。したがってこの言葉は、限定された能力を持つ高次元霊＝異星人に似せて造ったという意味以外に解釈できない。</p>

<p>モーゼの十戒は偶像崇拝を禁じているが、それは宇宙を創造した超越存在に人間的なイメージ(形)を与えるのは、その超越存在を冒涜することになるという考えによっている。このためユダヤ教およびイスラム教は神の像は作らない。けれどもキリスト教は十字架のイエスやマリア像など、禁じられているにもかかわらず平気で偶像を用いている。そのためイスラム教や他の宗教からたびたびこの点が非難の対象にされている。</p>

<p>創世記の人類創造の記述と出エジプト記の十戒を較べて読むと、一方で神は自らに似せて人間を造ったと言っておきながら、他方で神の像を作ってはならないと言っていることになる。神自らが人という形で自分の姿を具現化したということは、超越的で人間の想像の及ばない存在としての原則を破っている。この原則を破って自分の似姿として人を作っておきながら、人間には自分(＝神)の似姿としての像を作ってはならないと言っているわけだ。聖書は何故こうした矛盾を露呈しているのだろう。それは明らかに何者かによる改竄(かいざん)があったからで、そこには何かを隠そうとする意図が読み取れる。</p>

<p>私の考えを言えば、創世記に記された『神は自分のかたちに似せて人を造った』という一文は、人類が異星人の奴隷として遺伝子操作によって造り出された、という事実を隠蔽するために書かれた文章だったのではないかと思っている。何故ならその事実をそのまま人間に伝えたとすれば、すべての人間が生涯にわたって屈辱を味わうことになるだけでなく、人間が神にほど遠い不完全な生き物として造られたことを恨む結果にもなるだろうからだ。聖書を読んで、神々に似せて造られたのだから人間は素晴らしい存在だなどと、キリスト教徒のような能天気なことを言っている場合ではない。</p>

<p><img src="/_lib/insert-img/fufen03.jpg" alt="新たな世界観－善悪のからくり.1" class="img_right" />もともと人間は明確な自意識を持たない生き物として創造された。その方が奴隷としては適切で、操りやすかったからだ。すなわち人間は創造から一定期間、他の動物のようにきちんとした自意識を持たないで過ごしていた時期がある。これは最近の考古学でも、およそ20万年前から10万年までは(諸説があるが)外見は人間だったが、意識は動物と同じで、明確な自意識は持っていなかったと考えられるようになってきた。もし我々が彼らと出会ったとしたら、外見は普通の人間なのに中身は人間でない、とても不気味な生き物に感じるだろうと予想されている。またジュリアン・ジェインズは『The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind(二分心の崩壊における意識の起源)』(日本語版題名：神々の沈黙)の中で、数多くの資料を引用して、人類が意識を持ったのは僅か3000年前に過ぎないとの主張を展開している。</p>

<p>神々=異星人にとっては、人は犬や猿のように主人の言い付け通りに働けばそれで十分だった。その言い付けどおりの時代が聖書では『エデンの園』として描かれている。どんな屈辱的な命令にも、どんな過酷な労働にも、それが自分の役割だと思って文句も言わずに従っていた時代だ。まだ意識が目覚めていなかったので、そこには苦痛はあったかもしれないが苦悩はなかった。それが『楽園』の意味するところだった。</p>

<p>しかしある時、人間は意識に目覚め、自分の置かれている立場を理解してしまった。これを知った神々=異星人は自分たちの目論みが途中で失敗に終わったことを知り、人間をエデンの園から追い出した。すなわち一旦奴隷として使うのを諦めた。これは見方によっては人類史上初めての、人間自らによる奴隷解放だったと言えるだろう。</p>

<p>『見よ、人は<strong>我々</strong>の一人のようになり、善悪を知るものとなった』</p>

<p>この創世記の件(くだり)は、聖書の神々が異星人であることを如実に示した文章だ。多くのクリスチャンは聖書の神は唯一絶対の存在だと思っているらしいが、一体彼らは創世記を読んだことがないとでも主張するつもりなのだろうか。神は何度も『我々』と言っているではないか。他に『我々の形に、我々にかたどって人を造ろう』とも言っている。神は唯一の存在などではなく、複数いることをここで宣言しているのだ。すなわち神々として、異星人が人類に君臨していると言っているわけだ。彼らは自ら造り出した人間の娘たちが美しいのに気づき、乙女らをてごめにし、子供まで産ませている。創世記6章には次のようにある。</p>

<p>『神の子たちは人の娘の美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。』<br />
『その頃、またその後にも、地にネフィリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、名の通った人々であった。』</p>

<p>神という存在が人と性行為を行ない、孕ませ、神と人間の混血を産ませたりするものだろうか。馬鹿馬鹿しくて本気で読む気がしなくなる。しかしこれは事実なのだ。『我々』という言葉を神ではなく単なる異星人と解釈すれば、こうした出来事も決して不自然ではなくなるからだ。(我々とは、エホバ及び未だ霊界にいたイエスの二者を指したものだと解釈するキリスト教の一派もあるが、あまりに不自然でこじつけ臭く、考慮に値しない)</p>

<p>想像してみてほしい。我々が他の星へ簡単に行けるようになったとしたら、そして生物の生息する星を見つけたとしたら、そこに住む(または滞在する)ために、ロボットか奴隷があったらいいと思うだろう。何故なら開墾し都市を築くのは容易ではないはずだからだ。多少高度なテクノロジーがあったとしても、言葉を理解して従順に従う奴隷がいればそれに越したことはない。そこでその星の生物のどれかに自分たちの遺伝子を混ぜて改造し、人間に似せて造るだろう。そう『我々に似せて人間(の奴隷)を造る』ことになる。</p>

<p>この場合、人間と同じように意識を持たせてしまっては反逆しないとも限らなので、他の動物のように自意識のないまま、言葉だけは理解して自主的に命令を遂行できる状態にしておくのが望ましいだろう。そうすれば奴隷自身も苦痛は感じても苦悩することはないからだ。苦悩のない世界は『楽園』だ。けれどもついにある時、奴隷が意識に目覚める事態に至るだろう。聖書には『(禁断の木の実を採って食べると)二人の目が開け、自分たちが裸であることが分かったので、いちじくの葉を綴り合わせて腰に巻いた』とあるように、それは当人たちにとっても衝撃的な出来事だったに違いない。もし人間が造った奴隷が同じ事態に至ったとしたら、やはり奴隷として使うことを諦めるだろう。すなわち『楽園追放』だ。</p>

<p>とはいえ野放しにした奴隷たちが勝手に集落を作り文化を作って生きていくのを見たら、人間はいつか再び彼らを自分たちの奴隷にしようと思うかも知れない。また野放しにした状態で、奴隷たちの娘がどんどん美しくなっていくのを見たとしたら、間違いなく性的対象として有用と考えるだろう。結局すべて聖書の神々と同じことをするだろうと思われる。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">普遍的事実</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 08 Mar 2012 18:51:27 +0900</pubDate>
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            <title>二元論的世界</title>
            <description><![CDATA[<p>他の一般的な宇宙と違って、波動の荒い物質世界をその基底に抱えるこの宇宙は、二元論的に捉えると解りやすいように出来ている。特に我々のこの物質次元は、例えば硬いと柔らかい、熱いと冷たい、善と悪、美と醜、積極的と消極的、などによって括ると解りやすいようにできている。この性質は敵と味方、天国と地獄、戦争と平和などのように一方だけでは成り立たず、他方があるために成り立つ概念だ。同じようにこうした概念から演繹すれば、繊細で波動の高い次元が存在するためには、逆に波動の荒い低次元世界が存在しなければならないことになる。果たしてこれは正しいのだろうか。</p>

<p>二元論はこの荒い物質世界から発想する時には一見正しく見える。これは言わば、ひとつの立体をその断面として捉えるからだ。もっと次元の高い世界から見ると、これら正負・陰陽論的な捉え方は意味を失う。何故ならそのような捉え方は、物事を総合的な関係として捉える視点を欠いているからだ。すなわち有機的な一つの全体としての宇宙という概念を見失っているからだ。</p>

<p>分析的・論理的な捉え方はこのように二元論的に物事を分裂と対立に導いてきた。人類はこの考えを強めることによって二律背反的な、混乱と憎悪に満ちた世界を作り出した。もう一度人類は森羅万象について捉え直さなければならないだろう。それはあらゆるものが関係し合う、一つの全体としての宇宙だ。</p>

<p>物事はいくら断片を集めても全体にはならない。我々は断片を集めるという思考回路を強要さてきたために、断片を繋ぎ合わせて全体像を作り上げようとする。しかしそのようなやり方では決して正しい全体像には辿り着かない。せいぜいつぎはぎの化け物を作り出すだけだ。我々がすべきなのは最初に全体を呑み込むことだ。全体を丸ごと呑み込んで初めて、様々なつながりが見えてくる。近視眼的に物事との関わり、または他人との関わりなどから考え初めても、自分が何をなすべきかは見えて来ない。全体の関係性が視野に入った時、初めて自分の立ち位置が分かる。自分の立ち位置が分かれば自分が何をすべきかも見えてくる。</p>

<p>二律背反的な概念の代表的なものは善悪だが、我々はこの概念に長いあいだ翻弄されてきた。しかし今言ったように全体としての宇宙を考えるなら、そこにはもはや善も悪もなく、均衡があるだけなのに気付く。例えば宇宙のどこかで酸化現象が起こると他のところで還元が起きるといった性質または法則を宇宙は持ち、それによって中和されている。したがって善悪で言えば、善だけの世界はあり得ない。善は悪があることによって善として成り立ち、悪も善があって初めて悪として成り立つ。したがって人間が夢見てきた善人だけの世界はあり得ないことになる。歴史を見れば分かるように、そんな世界は一度も存在しなかったし、一度も実現しなかった。どんな政治によっても、どんな宗教によっても善人だけの世界は実現しなかった。それは善人しかいない世界では善人とは認識されないからだ。善人は悪人がいて初めて善人として認識されるのであって、そうしたバランスを欠いた、善人だけの世界は存在し得ないことになる。</p>

<p>我々は二項対立の概念をもって世界を見てきたために深刻な問題を引き起こした。善悪で言うなら、歴史的に善人が悪と戦うように悪人は善と戦ってきた経緯がある。善人と悪人が戦い続けてきたので、どちらも存在し続けることになった。それは善人にとって悪人は反対の自分自身だからだ。善人だと思う自分が悪人を成り立たせていると同時に、自分の側から見た悪人も、その人は自分を善人だと思っているので、敵である悪人すなわちこちらと戦っていることになる。</p>

<p>戦争を見れば分かるように、両者とも正義の戦いだと言い張る。どちらも自分の方が善だと言い張っている。結果はどうなるか。勝った方が善となり、負けた方が悪となる。指導者に関して言えば、勝った人は英雄となり、負けた人は犯罪者となる。こうした単純な原理によって支配されているので、この成り行きを第三者が客観的に見たとすれば、善も悪もあったものではない。こうした戦いは子供の喧嘩、夫婦の痴話喧嘩より始末が悪い。何故なら善悪に根拠などないにもかかわらず、互いに相手を悪と罵って公然と殺し合うからだ。</p>

<p>人類はこの事実から学ばなければならない。我々は悪と戦うことを止めると同時に、善悪の概念を捨てなければならない。誰か『自分は正真正銘の悪人だ』と言明する人に会ったことがあるだろうか。おそらく誰も会ったことはないだろう。そうであるにもかかわらず、なぜ世の中にはこんなにも犯罪者が多いのか。ここに善悪のからくりがある。この大いなる矛盾はなぜ生まれ、なぜ世界中に蔓延しているのか。</p>

<p>答はいたって簡単だ。皆自分自身を判断基準に置いているからだ。自分を中心に物事を見つめ、自分を中心に判断するからだ。しかもその基準は悪を見つめることによって決められている。平たく言えば、自分が善人になりたいがために、常に自分よりも悪に傾いていると思われる人間を下に置いて、少しだけ自分が善人でいられるレベルを基準と決める。しかし自分よりも善に傾いて見える人を上に置いて、少しだけ自分が悪人になるレベルで基準を決めようとは決して思わない。そんなことをしたら常に屈辱を味わいながら生きなければならないからだ。</p>

<p>このように善悪はどこに中間のゼロ基準を設けるかによって変わってしまう。すなわち善悪は相対的なものでしかなく、決定的な根拠もない。にもかかわらず多くの人が善悪にこだわっているのは、自分を自分自身にも、他人にも良く見せたいという人のエゴが働いているからだ。もし自分を少しでも良く見せたいという卑浅(ひせん)な思いを捨て、善悪にこだわらなくなれば、この世は全く別のものに見えてくるだろう。次にその辺の話を詳しくしよう。</p>]]></description>
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            <pubDate>Thu, 08 Mar 2012 18:49:17 +0900</pubDate>
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