ソーシャル・ビジネス.2
日本の現実
バングラデシュにおけるユヌス氏のソーシャル・ビジネスの展開を見てきたが、では我々はこの日本でどのようなことができるだろうか。最貧国に属するバングラデシュでの事業をそのまま日本に持って来ても通用するとは思えない。だが日本でも新たな貧困が生まれつつある。一生懸命働いても生きてゆくぎりぎりの生活から抜け出せないワーキング・プアと呼ばれる人たち。また職場から職場へと浮草のように社会を彷徨(さまよ)う派遣社員。彼らも生活の不安から抜け出せない精神的な意味も含めた一種の貧困層だろう。
このような先進国の貧困は、ある意味で後進国のそれよりも問題の根は深い。それは後進国の貧困は不正な取引や賄賂を断ち、多くの事業を起こすことによって解決は可能だが、先進国の貧困は経済社会の構造の歪みに原因があるため、それを是正するのは新たに作り出すより難しい面がある。それには人が革新的な要素よりも保守的な要素をより強く持っているという理由もある。
先進国の現実を見ればまた別の無視できない問題もある。それは指導者が未だに市場原理主義という幻想にしがみついていることだ。市場原理主義とは一言で言えば、自由競争によって需給のバランスが取られ、健全な経済活動が行われるというものだ。しかし実際には定期的なインフレや株の暴落、失業や賃金格差などいくつもの問題が噴出してきたのも歴史が語る事実だ。このことが示唆しているのは、単に市場を奪い合い、利潤を追求するだけでは経済活動は健全に保たれないということだ。
問題は他にもある。金融資本のだぶついたお金がマネー・ゲームに使われている。金融資本とは銀行と大企業が互いに株を持ち合い、より多くのお金を運用しやすくしたものだ。これによって物作りではなく、金によって金を得ようとするマネー・ゲームが始まった。先物取引などはその典型だが、もはや実体経済を離れたところで、一国を丸ごと買い取れるほどの巨額の金が電子マネーとして世界中を駆け巡っている。
私の素直な感想を言えば、これは本来の経済活動とは程遠い、経済に名を借りたギャンブルに過ぎないと思う。アメリカのある大手証券会社ではノーベル賞を受賞した経済学者を二人も三人も雇いながら、暴落を予測できずに多額の損失を出したこともある。所詮ギャンブルはギャンブルにすぎないということだろう。これは日本のヤクザや欧米のマフィアが株式会社を装って悪行を働いているのと大して変りはない。エリートを象徴する高級スーツに身を包んだ証券マンが毎日ギャンブルにうつつを抜かしていると言っても大して間違いではない。
こういう言い方をすると顰蹙(ひんしゅく)を買いそうなので付け加えておくが、私は株取引や証券市場が良くないと言っているわけではない。それは資本主義経済を支える重要な役割を果たしているのも事実だからだ。しかしそれはあくまで脇役としての役割であり、決して主役になってはならないものだと思う。ユヌス氏が言うように、単に金によって金を生み出そうとするゲームが資本主義経済を歪ませているからだ。この歪みを是正する一つの発想がソーシャル・ビジネスだと彼は言っている。
日本の現実についてもう一つ指摘したいのはコマーシャルの弊害だ。テレビでは一日に膨大な数のコマーシャルが流されている。その中の多くは誇張、嘘、脅迫といった傾向を帯びている。常にこうしたコマーシャルを見せつけられている人たちには深刻な影響が出ている。大人たちが品のない脅迫に満ちたコマーシャルに次第に洗脳されているだけではない。一日中テレビを点けっぱなしにしている家庭では子供たちが深刻な影響を受けている。彼らは無意識のうちに大人は嘘つきであり、世の中は多少の嘘や脅迫や誇張は許されるのだと思うようになっている。しかも普通のコマーシャルは15秒置きに次々と変わるため、物事に集中できない落ち着きのない子供が育っている可能性がある。
コマーシャルは大抵の場合注意して見ているわけではない。そのため製作者はどうにか注意を惹こうとなりふり構わず下品で不快で誇張されたものも平気で流す。ところが最初は注意を向ける視聴者も、やがては飽きて注意を向けなくなる。するとさらに刺激の強いものを製作者は追求するようになる。こうして今や節度も品性も真実味もないコマーシャルが氾濫してしまった。
我々が認識しなければならないのは無意識というものの性質だ。意識は受け入れることもできるし拒否することもできる。すなわち取捨選択が可能だが、無意識は拒否というカードを持ち合わせていない。これが一般に心理学の説明するところだ。すなわち無意識は何一つ拒否できず全てを受け入れてしまうという性質を持つ。取捨選択なしで入って来たものは心の底に溜まり、やがてそれは意識の表面に現われてくる。しかしその時はもはや制御が利かない状態になっている。今の若者たちの下品で落ち着きのない態度は、彼らが子供から大人になる時に、無意識に蓄積されていたものが意識を占領することによって表面に現れたのだと推測できる。
こうした歪んだコマーシャルが歪んだ子供たちを生み出し、やがて社会に出て歪んだ競争原理の中で歪んだ競争を戦うようになる。当然人間関係も歪んだものとなるだろう。このような言い方は極端だと思うかも知れないが、赤ん坊や子供を観察すれば分かるように、彼らは大人よりもずっと敏感であり影響を受けやすいからだ。テレビと共に育った世代が今や三世代目に入り、世相が大きく変わったのはテレビの影響、特にコマーシャルの影響と関係があるように思われてならない。
我々に何ができるか
ここでは実際にソーシャル・ビジネスを始める場合の留意点と効果について話しておきたいと思う。
物事を始める場合、実現できるかどうかは別として、きちんとした最終目標を描いておくことが必要だと思う。それは例えば遠足にしても徒競争にしても、目的の場所がどこか分からなければ道を踏み外した時に本筋に戻れなくなるからだ。目標がはっきりしていれば道筋からはずれても修正が利く。これは重要なことだ。坊さんになろうと思わない人が坊さんになることはないだろう。医者になろうと思わない人が医者になることもないだろう。人は右に行こうと思って右に行くのであって、左に行こうと思って右に行く人はいないだろう。このように最終目標を明確にしておくのは、それがいかに非現実的なものだったとしても重要だと思う。
もう一つは今現在何ができるかを考えることだ。ゼロから始めようとする際、まず何ができるかを考えるだろう。しかしどうしてもしなければならないとう強迫的な観念に捉われるとうまくいかない。そうではなくて、何かできるかも知れないし何もできないかも知れないというところから始めるのがいいと思う。今できる範囲で考え、まず今できることから始めるのだ。
物事を行なうには、このように常に最終目標と、今できることとを同時に見つめながら進めるのがいいと思う。
ムハマド・ユヌス氏はソーシャル・ビジネスについては、その基本的姿勢を述べるだけで具体的なことはほとんど言っていない。彼の目指す最終目標は貧困をこの地上からなくすことだが、具体的な話は彼がバングラデシュで実際にやってきたことに止めている。彼はその国、その文化に合ったやり方で、柔軟に進めるべきだと考えているようだ。そこで以下には、これからソーシャル・ビジネスを始めようとする人たちに参考にしてもらうため、私の考えていることを少し述べてみたいと思う。
私の最終目標は三つの目標が抱き合わせになったもので成り立っている。その三つとはソーシャル・ビジネスとスロー・ライフと幼児教育だ。
これまで主にソーシャル・ビジネスについて述べてきたが、それだけでは住みよい社会は作れない。仕事の上では極限までの利益と究極の効率を求める会社の在り方が多くの人を肉体的、精神的限界にまで追いやってきた。たとえソーシャル・ビジネスが世の中に普及しても、生活のスタイルが変わらなければ真のゆとりのある生活は実現しないだろう。我々はソーシャル・ビジネスを実践しながら、もっとゆっくりした人生を歩む必要があると思う。
これは地域に根差した生活スタイルが基本となる。イメージだけを言えば、地域で取れた食材で、時間と愛情をかけた料理を作り、家族で、または地域の人が持ち寄って食を楽しみながら、お喋りでコミュニケーションを図る。この場合、食材の梱包代や輸送費がかからず、農協に献上するお金も省くことができる。これまで行政が地域活性のために税金を使って、美術館や劇場や図書館を建て、大型店舗を誘致したり、第三セクターでテーマ・パークなどを作ったりしてきたが、成功した例はまずない。それは地域の伝統文化を無視し、地域住民の意思を反映しなかったからに他ならない。我々は現在の都会にはびこる気狂いじみた忙しい生活を止め、地域に根差した『ゆっくり人生』を実現するために行動を起こさなければならないと思う。
さてソーシャル・ビジネスとスロー・ライフが実現したとしても、人間そのものが変わらなければ世の中は変わらないだろうと思う。そこで重要になって来るのが三番目の教育だ。しかし大人を教育しても変わるのは難しいだろうから、問題は子供の教育となる。人間の基本的な態度や意識の在り方は6歳くらいまでに決まると言われているので、特に幼児期の教育が重要となるだろう。
横峯式の幼児教育では、すべての幼児が6歳までに高度な集中力、運動能力、精神的強さ、思いやりなどを身に付けることができるという。これは実は日本に伝統的にあった教育法で、横峯氏がそれを蘇らせ、実践した結果だろうと思う。こうした教育が現実に日本全国で行なわれれば、それは夢物語ではなく、本当に日本は一世代で急激に変わるに違いないと私は思う。
このソーシャル・ビジネスとスロー・ライフと幼児教育が残らず実現した世界が、私の目指す最終世界だ。この目標達成のためには、まずソーシャル・ビジネスの概念を基本として、地域に根差したスロー・ライフに向かい、そして地域住民と結び付いた幼児教育の改革を進めていくのがいいと思う。
ムハマド・ユヌス氏が始めた貧困撲滅への行動は、ソーシャル・ビジネスを通して実現しつつある。彼の最終目標は、貧困が博物かでしか見れなくなる世界を作ることだという。その博物館の第一号は、世界で最後に貧困が無くなった地に建てられるだろうと彼は言っている。我々もソーシャル・ビジネスとスロー・ライフと幼児教育という夢に向かって歩き出したいものだ。ユヌス氏の言うように、我々が決意すれば、それは単なる夢ではなく、現実のものとなるに違いないのだから。
展望
ソーシャル・ビジネスを日本で根付かせるのは一見不可能に思えるかも知れない。ビジネスを起こそうとする場合、多くの人はどう利益を上げるかを考える。また資金や不動産の確保にも頭を悩ます。しかしこうした目先の損得に捉われる限り、良いビジネスの設計はできない。
私には二つの希望がある。一つは自己の利益のみを求めるのではない場合、多くのことが客観的に見えるということ。これはビジネスを設計する際に有効に働くと思う。もう一つはユヌス氏が言うように『人間には他の人のために良い行ないをしたいという本能的な願望がある』ということ。彼は人間の暗部に目を向けるよりも、この人間の善的な面に目を向けている。『このことは既存のビジネスでは完全に無視されてきた人間性の性向の一つだ』とも彼は言っている。人が単に利益を得るためにビジネスを行なったり、単に給料を得るために働くのではなく、他の人々や社会に役立つために行動するのであれば、それはその人にとって当然有意義なものとなり、生活全体の充実感へと結び付いてゆくと思う。ソーシャル・ビジネスはこうした理由の故に人々を惹きつける、とユヌス氏は言っている。
ソーシャル・ビジネスを行なうに当たって、我々は多くの人に、また多くの既存の企業に参加と協力を呼び掛けることもできる。もはや誰がお山の大将になるかなどを競う社会は崩壊しつつあるのだから、それぞれが自分の役割をわきまえた上で協力し合うことが肝要だ。自分だけの利益を求める商概念からいったん離れてしまえば、こうしたことは可能に違いない。
ソーシャル・ビジネスは既存の企業と戦うのではなく、逆に資金や技術の援助を求め、NPOやNGOとも手を結び、地方の役所や国の行政にも援助を呼び掛け、協力と強調の中で様々な分野に拡大していくべきだろう。それによって一流のセンスと一流の技術をもって、一流の商品とサービスを安い値段で社会に提供していけるだろう。
最後に強調しておきたいことがあるが、我々はこうしたソーシャル・ビジネスの活動を通じて、巨万の富の無意味さを社会に示すことができるということだ。また正当な利益の分配が、どれほど不安のない生活を人々にもたらすかも示すことができるということだ。
私が目指す最終目標のようなものは、今まで誰も信じないことによって実現することはなかった。誰かがいつの日かするかも知れないという漠然とした思いが実現を阻んできた。今我々にある選択肢は二つだ。今日この場で世の中を変えるために行動を起こすか、それとも「いつか、誰かが」という逃げ口上によって永久に何もしないかだ。資本主義経済社会が崩壊の瀬戸際にある今、我々はただ成り行きを見守っているだけでいいのだろうか。何か少しでも、何か一つでもできることがあるのではないだろうか。
もし「自分になど何もできない」という信仰を捨て、自らの行動によって世の中は変わるのだという信念を持てば、世の中は本当に変わると私は信じている。