終末予言
この世の終末に関する予言は歴史上数え切れないほどある。我々が知る限り、古代から現代まで、さらに地球上の様々な地域において、何度も終末は予言されてきた。しかし我々が見るとおり、それらすべては的外れだった。もしその一つでも当たっていれば、今のような世の中はなくなっているはずだからだ。
この100年以内を見ても、終末予言は分かっているだけで五十を超える。また紀元以降、記録に残っているものだけを拾っても軽く百は超える。記録に残っていないものを含めれば何百になるか予想もつかない。これらの予言をした人の中には宗教的指導者、修道士、占星術師、錬金術師、数学者、物理学者、宗教の一信徒など様々な人がいる。最近ではオカルト宗教の指導者や新興宗教の開祖、ピラミッド研究家、UFO研究家、普通のビジネスマン、大学教授など、これまた多様だ。
ここでは全てを列挙できないので紀元後のものについてだけ触れることにする。予言された終末の年を列挙すると、紀元170年、992年、1186年、1335年、・・・・・1842年、1914年、1921年、・・・1960年、・・・1970年、・・・1995年、・・・1999年、2000年、2001年、2003年、2006年、2008年、とこの後も続く。このうちの1914年はエホバの証人の創始者、1921年は大本教の信徒、1960年はキリスト教系の宗派の教祖で、彼は預言を外して警察に告発されている。1985年はアメリカの予言者、1995年は日本のオーム真理教の教祖、2000年と2001年は複数の人が予言している。なお1999年についてはノストラダムスというより、それについて本を書いた著者が予言したと言うべきだろう。
これ以外にも年代を特定していない終末予言がある。その代表的なものは聖書だ。歴史上様々な人が旧約と新約の聖書を読み解き、その年を特定したと公言したが、誰一人当たらなかった。しかし何億という人が聖書に書かれている終末を信じているのも事実だ。これはイスラム教においてもかわりない。ただ誤解されることが多いので仏教の終末思想について言うと、これは世の終末を言ったものではない。正しい名称は末法思想であり、仏教の教えがやがて廃(すた)れ、忘れられる時代が来ると言ったまでだ。仏教には時代とともに仏法が忘れ去られ、世の中が乱れていくという考え方があるので、現代とは違い、時代は進歩するのではなく退歩するという下降的歴史観をその基に持っている。
これ以外にも見逃してはならないものがある。古代マヤ族の暦や、ホピ族の持つ歴史観だ。古代マヤ文字は未だ完全には解読されていないので、マヤ人が実際に終末を予言したかどうかは分からない。我々が知り得るのは彼らが作った暦だけだからだ。この暦を西暦に直すと2012年で大きな周期が終わっていることになっている。これを終末と解釈しているのはマヤ人ではなく、我々先進国の、彼等から見れば外国人なのだ。
またホピについて言えば、彼らは過去も未来も現在にあるような、我々には馴染みのない歴史観を持っていいる。そして過去も未来も現在のように語られる。これはホピ族の言葉に過去形も未来形もないことによるとも言える(実は英語にも本当は未来形がない。それは動詞に現在形と過去形はあるが未来形がないからだ。我々は現在形の動詞と助動詞などの組み合わせを未来形と呼んでいるに過ぎない)。このホピ族がカチナの踊りという、彼らにとって重要な踊りを戦後間もなく踊っている。この踊りは人類に大きな節目が来る前に行なわれるのが伝統で、普通は百年に一度踊られるかどうかという、めったにないものなのだ。ホピ族がこのカチナの踊りで示した大きな節目を、この世の終末と解釈しているのも我々外国人である。
ただしマヤ人の暦やホピ族の儀式(踊り)には現代の文明人が持っているような作為的なものは入ってない。何故なら彼らの儀式や口承や暦は彼らのアイデンティティー(自己証明)そのものだからだ。もしそうしたものに嘘や作為的な内容が入れば、もはやマヤ人のものでもなくなるしホピ族のものでもなくなる。すなわち彼らにとってこれらは命と同じくらい重要なもので、そこに嘘や作為的な内容を入れるなど、思いもよらないことなのだ。
もう一度言えば、何百と現れた終末予言は、ほぼ全てはずれているということだ。「ほぼ」というのはまだその時が来ていない予言があるからだ。それを除けば全て見事にはずれている。それでも次から次と絶え間なく予言は現れてくる。このような事態を見れば、終末予言など馬鹿げたことだと思わざるを得なくなる。一体我々は何を信じるべきで、何を信じるべきではないのだろう。
所長の見解
終末予言の特徴には二つのタイプがある。ひとつは古い記録を読み解いて「これは終末を意味している、時期は何年後の何時いつである」と後の時代の誰かが解釈を加える場合だ。もうひとつは本人が自ら予言を行なう場合で、これには神憑り状態で言葉を述べたり書いたりする場合と、自分で見た映像を本人が解釈する場合とがある。
世の中の不安が増すと、たとえ経済的に豊かであっても終末論が叫ばれることがある。私には上のどちらの場合も、予言する者がこの世の終末を期待していた可能性があると思っている。見方によっては彼らは破滅型の人間だと言えるかもしれない。人類愛と世界平和のために何か行動を起こすのではなく、先に諦めがあって、一種の自暴自棄が彼らにそう言わせたと思える節もある。そして彼らは世間の人々が浮足立つのを見て、自分の影響力に快感を覚えるのかも知れない。時の支配者にはこうした破滅型の人間は危険極まりなく映る。したがって権力による弾圧もしばしば行なわれた。
では何故こうした現象が起きるのだろう。最大の理由は今も言ったように不安だと思われる。不安は具体的な悩みよりも遥かに始末が悪い。具体的な悩みは人にも相談でき、対策を立てることも可能で、大抵は努力によって解決の道が見えてくる。ところが不安は誰に相談しようと対策など教えてくれる人はいない。しかも努力によって解決できる類のものでもない。人間はよほど強靭な精神の持ち主でもない限り、長期間の不安には耐えられない。したがって多くの人は何らかの決定論に縋(すが)りつこうとする。その一つが宗教であり、でなければ占いや予言やチャネラーの言葉ということになる。
現代はまさに不安の時代だ。長期間不安を感じ続けた敏感な人たちは、その多くが神経症(ノイローゼ)や内臓疾患、引きこもりや自傷行為に至る。そうでない能天気な人たちは宗教に傾倒し、自分たちはこの世で最も正しい選択をした、と馬鹿げた説得でで自分を騙し続けている。現在では宗教でなくとも、占い師やチャネラーのもとに通い、あなたはああである、こうであると言われて鵜呑みにし、自分で判断する苦労から逃れるために彼らの言葉に従い、自分の人生を放棄している人たちもいる。さらに別の人たちは自ら占い師やチャネラーになって、ひたすらどこの神だか分からない怪しげな声を聞き、超能力と言われる能力を得たことに有頂天になって、自分が聞いた言葉の奴隷になり、これまた自分の人生を放棄してしまっている。
このように人は不安から逃れるためにはなりふり構わず何でもする。多くの人は不安から逃れるために何か絶対体的なものを求め、自分を騙してでも、自らの人生を放棄してでも、絶対的なものに縋(すが)ろうとする。そうでなければ生きていけないと感じるからだ。不安な人たちにとって絶対的なものは蜜の味、癒しの極致に思えるからだ。
現代科学がかつての宗教のように権威を得てしまった現在、科学が絶対だと思っている人たちも同様だ。この類の人たちは保守的で無神経、頑固で寛容性がないので、人間の霊性や死後の世界、多次元的な宇宙の成り立ちなどに心を開こうとはしない。こういう人たちは中世のヨーロッパで、教会の教え以外何も受け付けなかった人々と変わるところがない。自分たちが一番正しいと思っているという意味では、宗教の信徒とも変わるところがない。
では他に不安を逃れる道はあるのだろうか。残念ながらこの世にそうした道は用意されていない。何故なら我々は修行と気付きのために、自ら志願してこの世にやってきたはずだからで、安易な道を歩むためにわざわざ生まれてきたわけではないからだ。
ではチャネラーや占い師や宗教に頼ることなく正気を保ち続けることなど果たしてできるのだろうか。フランスの詩人ヴェルレーヌの詩に次のような一節がある。
「選ばれてあるところの、恍惚と不安と二つ、我にあり」
我々はこの世に生を受けた以上、不安に耐え、不安の中で自分の道を模索しなければならない。しかしそれは必ずしも惨めで不幸なものではなく、一種の誇りとも言える恍惚を伴った道だと彼は言いたかったのだと思う。
今の忙しい世の中、テレビを点けずに静かな部屋で詩を読むなどといった人は殆どいなくなってしまったように思う。多くの人が下品な笑いを売り物にするテレビ番組と、発展性のない感情のしがらみを描いたドラマに嵌(はま)っているように見える。詩を読み、また詩を書くといった、魂の感動を味わう日本人はどこへ行ってしまったのだろう。
予言は手っ取り早く結論を与えてくれる安易で分かりやすい道だ。我々はそれらの予言にどれだけの根拠があるのか、慎重に見極める必要がある。今多くの人が感じているように、この世のシステムは世界規模で崩壊の瀬戸際に直面している。この時宜(じぎ)を得て次々と終末を予言する人や、神の名を借りて宇宙の真実を断言する人が現われてきている。我々はこうしたものを単純に信じたり、逆に毛嫌いしたりするのではなく、冷静に真偽を確かめるよう努めなければならない。では次にその見極めの方法について一端を述べることにしよう。