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脳容量と脳の機能

現在の進化論では猿から猿人そしてヒトに至るまで、脳は順次その容量を増やしてきたと言っている。まるで脳の肥大化が高等動物への王道でもあるかのように。

脳イメージ考古学の本には、頭骨から脳容量を量る計算の説明が書かれていて、古い時代の頭骨ほど容量は小さく、新しい時代のものほど容量は大きいと説明されている。それらの詳しい図が載っているものもある。ただしネアンデルタール人は、現代の成人男性の平均脳容量が 1450cm3なのに対し、彼らの頭骸骨から計算した平均脳容量は1600cm3ある。これは何か変だと思う。しかし学者たちはこのことに深入りせず無視している。専門家はネアンデルタール人の頭骨は扁平で額が後方へ傾斜しているので現代人の特徴とは違うし、脳が大きいのも彼らの強大な筋肉を制御するためであって知能とは関係ない、と突然子供だましの詭弁を弄したりする。

どうして『これに関しては脳容量は増大するという進化の法則に矛盾する』と素直に言えないのだろう。最低でも「これは例外である」と言うべきだろう。こうした学者たちの態度を見ていると、何が何でも我々ホモ・サピエンスを進化の頂点に置かなければならないという彼らの驕りを感じてしまう。我々現生人類はそんなに大したものなのだろうか。

脳の機能については確定的なことは言えないが、' THE WALKING PEOPLE ' (翻訳名:一万年の旅路)という本の中に興味深い記述がある。作者のポーラ・アンダーウッドはネイテイブ・アメリカンで、彼女の属するイロコイ族の伝承を受け継いだ人物である。彼女は幼い時から少しずつ伝承を暗唱させられ、イロコイ族が朝鮮半島の付け根あたりから氷河期のベーリング海峡を渡り、アメリカ大陸を南下してさらに大陸を横断し、最後に五大湖に達したという長大な民族の歴史を憶えさせられた。それを綴ったこの本には興味深い話が多々出てくるが、その中でも特に私の興味を引いた話がある。それは彼らとは全く違う人々、あるいは違う人種との出会いである。その見知らぬ人種をイロコイ族の斥候が数ヶ月に渡って観察するのだが、何と彼らは言葉を使わずにコミュニケーションしていたのだ。

歩き続ける民族にとって伝承は記録であり歴史であり彼らの自己証明であり、貴重な民族の財産でもあった。そうしたものに嘘や作り話を混ぜることはない。古い時代に政権が作らせた数々の歴史書よりも信憑性があると私は考えている。だとしたら現代人の多くとは違う脳を持った、あるいは違う脳の使い方をした種族がいたことになる。では我々の脳はどうなのか。彼らと本質的に違うのか。あるいはそうした能力が我々の中に眠っているのだろうか。

もう30年以上前になるが、私はドイツから来た女子高校生と知り合いになったことがある。彼女は日本語が話せなかったせいもあってか、そのうち日本に来ていたアメリカ人の青年と付き合うようになった。その青年は世界中を放浪してきたのだが、彼がアフリカのある国で村の人たちと夜焚火を囲んでいた時、一人の老女が突然、隣村の誰それが死んだと言ったという。それを聞いてと周りにいた村人がすぐに葬式に出かける準備を始めたというのだ。翌朝、隣村からの伝令が来て、老女の言った通りの人物の死を告げたという。

そのアメリカの青年は驚きを禁じ得なかったが、成り行きを目の当たりにしてはその事実を認めざるを得なかったそうだ。こうした話は伝承の世界に限らず現代でもそうした能力を持つ人々がいることを示している。もしかしたら、そうした能力を失った種族あるいは集団が、必要に迫られ多大な努力を払って通信機や電話機を発明した、ということかもしれない。


所長の見解

私の考えでは脳は一種の計算機であり、記憶バンクに過ぎないと思う。「意識」の項目を参照していただきたいが、我々の脳はこの三次元で生きるために必要な機能を持っているだけだと思う。それは物に強くぶつかったら痛いとか、今日は朝と昼に食事をしたからこれが三度目だとか、物質界で必要不可欠な情報を得るために機能しているに過ぎないのではないかと思う。

イメージでは意識そのものや閃きや判断はどこから来ているのだろう。それはこの物質界を超えた高い次元から来ているのだと思う。あるいはもっと高い次元の自己から来ているのだと思う。これはとても唐突に聞こえるかもしれないが、そのようなことを認識、または主張した学者が何人かいる。一人は前にも言った古代ギリシャのプラトンだが、もう一人は深層心理学者のC・G・ユングである。彼は意識の下に無意識があり、さらにその下に集合無意識があると主張した。この集合無意識は人類全体が共有していて、地球の西と東にいる人が同じ認識や発想を持つことがあるのはこの集合無意識の層にそれぞれがアクセスするからだ、ということを言っている。

もう一人はルパート・シェルドレイクという生物学者で、彼は形態形成場というものが生物の形態や行動に作用すると言っている。例えばカエルの子がカエルになるのは、形態形成場で形態形成作用が働いたからであり、あらゆる物や生物が同じ事を繰り返すと、そこに形態形成場が形成され、作用を及ぼし始めるというのだ。例えば一匹のラットがある新しい行動パターンを身に付けたとすると、その後に生まれてくる同種のラットはどれもこの行動パターンを以前のラットよりすばやく身に付けるようになるという。言っておくがこれは推論や仮説などではない。実際に実験によって確かめられたことである。

さらにもう一人は「連続性の法則」を唱えたパウル・カンメラーである。二度あることは三度ある、という言葉もあるように物事は連続して起こることがある。彼は確率的に考えれば、このようなことは「偶然」によって起こるとは言えないと主張した。様々なデータを集めて統計処理した結果、彼は明らかに特異な傾向があることに気が付いた。そして『このような符合はいたるところに見られる連続現象のうち、たまたま目に止まったものに過ぎなく、我々が意識できるのは無数の連続性の氷山の一角に過ぎない』と主張した。そして『この連続性の法則は思考、意識、感覚、科学、芸術などを、それらを生み出す宇宙の子宮に繋げている』と説明した。

さて、こうした主張や実験やデータは何を物語っているのだろう。それは物事は脳や物質界を越えたところから作用を受けているということではないだろうか。そう考えてみると、脳の容量などは特に問題ではなくなり、さらに脳自体もいわば一種のデータ処理機に過ぎないことになる。言い換えれば脳は本源的な情報または指令を受け取る受信機であり、それらを分類整理するコンピュータとしての役割を担っているに過ぎないことになる。

数少ない学者が学会の爪弾きと無視にさらされながら、それでも勇気ある発言をしているのは、物質的なこの世を超えた別の世界があることを確信しているからではないだろうか。それは単に真実に魅せられた者のやむを得ざる行動と言えば言えないこともない。しかし地位も名誉も捨てる覚悟で自分の確信するところを発言している姿には、どこか鬼気迫るものを感じる。


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