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人類の二足歩行

人類はいつ、いかなる理由によって二足歩行するようになったのか。仮説はいくつもあるが、広く一般に認められた説はない。このため人間は神によって創造されたと唱える新創造論者の「我々は造られた時点からすでに二本の足で歩いていた」、という説にさえきちんと反論できないでいる。

「木から降りた猿」という仮説が一応正統主流の説ということになっているらしいが、とても納得できるものではない。森が草原に変わって行く時、その境目で立って歩くようになったというのだが、これでは余りにも無防備すぎる。人間は体に何一つ武器を持っていないばかりか、二足のため走るのも非常に遅くなっただろうからだ。人間は最初から雑食だったかどうか定かではないが、もし捕食動物だったとすると武器を持たない身体でどうやって獲物を仕留めていたのだろうか。もしかしたら人間は最初から武器を作れたのかも知れない。逆に草食で被捕食動物だったとしたら、どうやってその遅い足で捕食動物から逃げおおせたのだろうか。まったく解らないことだらけだ。

最近は海や湖の近くで暮らすうち、水中で立つことを覚えたなどという説も出ている。私に言わせれば、だったら鯨やイルカのように水棲動物になったと言うべきところではないかと思う。でもならなかった。何故だろう。水中で泳ぐ能力を伸ばす前に歩くことを覚えたとでも言うのだろうか。この説の提唱者は浅瀬だったからだと言っている。そんなに海や湖に浅瀬があるだろうか。第一、人は浅瀬で海藻や貝を採るより、深いところでウニやアワビなど浅瀬で採れないものを採りたいと思うようになるものではないだろうか。私は浜育ちなので、上級生が深いところで潜って浅瀬にないものを採るのをうらやましく思い、また浅瀬でしか採れない自分を恥ずかしく思ったものだった。現実の人間を見れば常に挑戦的であり、行ったことのない所、できないことに挑戦してきたのは皆の知るところだろう。何故何万年も、あるいは何十万年も浅瀬だけで採取を続けてきたと言えるのだろうか。

猿を見れば分かるように、彼らが腰骨を伸ばすためには、ちょうど首まで位の深さの浅瀬でなければならない。もっと浅ければ腰を曲げたまま採取できるからだ。実際の海岸では砂浜でも浅瀬には起伏があり、岩場なら同じ深さのところなどほとんどない。我々の祖先は何万年もの間、自分の首くらいの浅瀬を選んで採取していたとでも言うのだろうか。

進化論は生物が獲得した特質が有利な場合、世代を経てその特質を持つ者が集団内で優勢を占めるようになり、やがてそれが集団全体を席巻したと説く。では二足歩行のどこが有利だったのだろう。草原で遠くを見渡せたのは有利だったと言う人もいる。本当だろうか。だとしたらキリンやダチョウの方がよっぽど有利ということになるのではないか。背が低く遠くまで見渡せない生き物は、では滅んでしまったのか。現実を見ればそんなことはない。進化論者はこうした子供だましの屁理屈をなぜか平気で発表する。


所長の見解

二足歩行について一言でいうなら、誰も本当のところは解らないということだろう。想像力のある一般の人なら、子供だましの屁理屈を語る学者より、もっと穿(うが)った説明を考え出すかも知れない。私の友人に冗談半分で聞いてみたところ、「そりゃ好奇心じゃないの」という答えが返ってきた。「いや、好奇心と言うより自己顕示欲かな。誰だって目立ったことをしたいと思うだろう」と。

我々はこういう意見に対しても実のところ否定も肯定もできない。しかし高いところからの飛び込みだの、バンジー・ジャンプだの、ロック・クライミングだの、人間は必要もないのに色々なことに挑戦する。現在の人間の感性を猿人に当てはめることはできないだろうが、かといって猿人であった頃の我々の祖先がどんな感性を持っていたかなど誰にも解らないのだ。

ヌーの群れヌーの群れが川渡りする映像をテレビの番組で見たことがある。数千頭のヌーが一筋になって川を渡るわけだが、そこには彼らにとって恐ろしいワニがこの時とばかりに待ち構えている。そこで私は信じられない光景を見た。ワニが疲れ切った一頭のヌーにまさに襲いかかろうとしたその時、突然立派なヌーが背後からそのヌーを跳び越えてワニの前に飛び出したのだ。もちろんその勇敢なヌーは水中に引き込まれてしまった。ナレーターは驚きの声で、これは自己犠牲としか思えないと言っていた。

こうした事柄についても自己犠牲などではないと難癖を付ける気になればいくらでもできるだろう。しかし素直な感性で見れば自己犠牲である。ヌーが自己犠牲という概念を持っていたかどうか我々には知る由もないし、真実がどこにあるのか今の時点で知りようがない。だが数千頭もいれば、信じられない行動をとるヌーもいるということである。進化論では必然性が要求され、無理やりそれに沿おうとするため稚拙な論理がまかり通ったりするが、問題の本質はもっと深いところにあるような気がする。

ヒントは前にも言ったプラトンのイデア論的世界にあるのではないかと思う。我々がこの物質界の範疇で判断しようとしても解らないことだらけだ。だとしたら宇宙全体とは、見えない世界や我々の感知できない世界をも含んでいるのではないだろうか。そこに答えが隠されているのかも知れない。世界の主立った宗教が我々の物質界を超えた世界について述べているのを、すべて妄想だと片付けてしまうのは愚かなことなのではないだろうか。見たり触ったりできる世界だけしか信じない物質主義の今の世の中の方がおかしいのかも知れない。問題の病根は物質にしか目がいかない我々自身の中に潜んでいるように思われる。


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