単細胞生物から多細胞生物
生物は初め単細胞生物として生まれ、多細胞生物になったと説かれている。これは素人目にはなんでもないことのように思える。だが単細胞生物と多細胞生物の間には無限とも言える距離がある。単細胞生物はそれ自体で完結していて、何の過不足もない。ちょうど我々一人ひとりのように。では多細胞生物の最低基準である二つの細胞を持つ生物を考えてみよう。これ自体、単細胞生物が分裂してできたのか、合体してできたのか定かでない。しかしもし分裂してできたとしたら、極端な話、我々の体が左右二つの部分に、あるいは上下二つの部分に分かれてそれぞれ機能分担することを意味する。我々は一個の人間として完結しているのに、そんなことを望むだろうか。またもし合体してできたとしたら、誰か他人と合体して肉体も脳も共有し、それぞれ役割分担を決め、かつ協力し合わねばならないことになる。我々はそんなことを望むだろうか。
最適者生存というダーウィンの主張からすれば、多細胞生物の方が最適者ということになる。だから単細胞生物から多細胞生物へと進化したのだと。だが何者がそんなことを判断したのだろう。多細胞生物がまだいない世界で、そんなことを判断できるいったい誰がいたのだろう。神様? でなければ単細胞生物自身? だが進化論者は神を認めてはいない。だとしたら残るのは単細胞生物だけとなる。
単細胞生物は進化論者の主張によれば何億年と生き延びてきた。何過不足なく。なのにある時、自分を別々に機能する二つの部分に分けたいと思うだろうか。あるいは他の単細胞生物と合体して、それぞれ機能を分担したいと思うだろうか。いやどっちだろうと、そもそも思うこと自体が不思議ではないか。
もう一つ進化論者が持ち出す論法に突然変異というのがある。時間さえあればそういうことも起こり得る、というのが彼らの論法だ。そう時間さえあれば何でもかんでも起こり得るのである。まるでトランプのジョーカー、オールマイテイー、ゲームの無敵状態のように。我々人間が5本足になり、腹の上に頭がくっ付くのも、時間さえあれば可能なのである。こんな子供だましの論理が、学界というところでは平気で通用している。
さてもし単細胞生物より多細胞生物のほうが有利なら、なぜ全ての単細胞生物は多細胞生物にならなかったのだろう。多細胞生物が現れてから何億年も経つのに、いまだに単細胞生物が生息しているのはどうしたことだろう。当然出てくるこの疑問に学者たちは一切答えようとしていない。いや答えられないのだろう。
所長の見解
数学の世界では単数と複数はもっと明確に違う。これは数理哲学で扱う問題だが、バートランド・ラッセルなどは、1+1=2 にならないと主張している。なぜなら単数と複数は根本的に違う概念であって、1 という概念をいくら集めても 2 という複数概念にはなり得ないからだという。だからあくまでも 1+1=1+1 でしかない。 1 はそれ自体で完結した概念であり、2 は 3,4,5,6・・・・と無限に続く世界に属するからだ。
私は数理哲学のこうした主張が、そのまま生物学に当てはまるとは思わないが、しかしその概念は様々な物事の一つの本質を言い当てていると思う。例えば全宇宙を造った唯一の神という一神論と、全てのものに神が宿るとする汎神論は決して相容れない概念であり、これはそのまま単数と複数の概念にもなる。
私は単細胞生物が、進化論者の言う偶然という魔法によって多細胞生物になったとは思わない。しかし現実には多細胞生物は生息しているわけだから、ここには我々のまだ知らない何らかの力が関与していると考えなければならないだろう。
現代物理学には十次元理論というものがあって、これが一般に認められている。内容は、宇宙は最初十次元として生まれたが、時間の一次元と空間の三次元を残して、残りの六次元は畳まれてしまったというものだ。ここでも畳まれてしまったなどという、まやかしの論法が用いられている。彼らの得意技である。私は畳まれたのではなく、実際は存在していると思っている。だから四次元や五次元からの干渉が常にあるのだと。だとしたらプラトンの言うように真なる世界があって、この世はそのコピーかもしれない。高次元に多細胞生物の真なる存在があって、それがこの世に複写された、と考えることもできると思う。